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一人称についてのおはなし


先日発売され、忽ち話題沸騰売り切れ続出となった『文藝 秋季号』。そこに収録されていた、星野智幸氏による「モミチョアヨ」という短編。それは、「星野炎」という男が主人公で、「星野炎は〜をした。」という風に書かれていたので、神の視点を用いた三人称小説なのだと思っていたのだが、途中になんとこんな一段落が。

ちなみに、この小説の「星野炎」は一人称である。星野炎はヘテロの男だけれど、日本語だと自分にふさわしい一人称はない。「私」では公式でよそ行きで気取っていて本心を取り繕っているかのような印象があるし、そもそもプライベートで「私」を一人称として使っていない。「ぼく」はカマトトぶって責任逃れしているみたい。最も厄介なのが「俺」で、今の星野炎がプライベートの話し言葉で使う一人称は確かに「俺」だが、「俺」という言葉にはいかにも本音でざっくばらんに話しているという含みがあり、そうすれば過ちは大目に見てもらえるかのような、母の庇護のもとで許される俺様中心の匂いプンプンだ。「おいら」「わし」「アチキ」「余」「我」「自分」「コギト」どれも色がつきすぎ。「朕」は無理だし。
(『文藝 秋季号』 124ページ)


つまり、この小説は視点は「私」で描かれている一人称小説なのだけど、「私」の代わりに「星野炎」というフルネームが使用されているのである。こういう小説を読むのは初めてなので、最初は少し驚いた。しかしこの日本語の一人称問題、考えれば考えるほど根が深く面白い問いだなぁ、と思うのである。


一人称。
私。あたし。僕。おれ。わし。我輩。

いくつかの外国語を学ぶようになってから(といっても一定の水準に達したのは英語と仏語だけで他は挨拶くらいしか知らないけれど)、一人称がこんなに多様なのは日本語の特徴のひとつであると知った。男女によって一人称が異なるのも。

今となっては日本語が言語界の一人称の表現においてマイノリティ、珍しい側に属する存在であるのだと理解しているけれど、中学生のときに英語を学びたてのわたしは英語がIでしか表わせないのを不便だと思っていた。

中学時代の英会話の先生(イギリス人)に、「英語は一人称を男女で使い分けないけれど、トランスジェンダーの人はどうやって自身がトランスであることを言葉を通して表現するの」と質問したことがある。中学生ながらに、性の自己表現としての一人称の持つ役割について薄々気がついていたのだろう。
(ちなみに先生は「確かに一人称では表わせないけれど、性別によって使いがちな単語や言い回しが異なるからそれらを通して表現するのよ。」と答えてくれた。なるほど。)

わたし自身は確か、幼稚園生の頃は自分を名前で呼んでいて、小学生になると流行に乗り「うち」と言い、中学生になると周りに合わせて「わたし」と言うようになった、という変遷を遂げている。また、小学生の従兄弟(男の子)も、自分の名前→ぼく→おれ(ちなみにイントネーションはお↑れ↓)と変わっていった。周りが自然とそう変わっていくことに合わせての変化である。

ここで、興味深く思う点が二つある。
①一人称を書く際に、わたしは意識的に「わたし」というひらがなを用いているということ。
②誰もが、「みんながその一人称を使っているから」という理由で自身の呼び方を変えていくということ。

まず①に関しては、わたしは書くときに意識して「私」ではなく「わたし」を使っているということだ。そしてその理由を考えてみると、たぶんわたしにとって「女性である」ことはアイデンティティの根幹を成す要素の一つであって、「私」という両性が使用できる書き方を使用することでそのアイデンティティが薄れてしまうことを恐れているから、な気がする。日本社会における性別の持つ重要性を思いっきり内面化して利用しているとも言える。

ちなみに口語では「わたし」としっかり「わ」を発音するときもあれば、「あたし」という風に「わ」が「あ」になるときもある。
また、わたしは語尾も結構女言葉を使っている、「わよ」とか「のよ」とか「かしら」とか。二人称も「あなた」と普通に言う。このご時世結構珍しいタイプかもしれない。「男の子っぽい話し方」は、なんだか品位が損なわれるような気がしてなんとなく使うことができないのだ。(男子の前では合わせてそう言った調子の言葉を使うこともなきにしもあらずだが)

日本語を使っている限りは、性別にどうしても縛られてしまう。だから英語とフランス語を話すのが好きなのかもしれない、なんて思ったり。

②に関しては、誰と一人称の変遷について話しても、みんな「周りが変えたから」「周りに合わせて」といった趣旨のことを述べる。均質性を美とする日本独特の風習は、幼稚園時代からきちんと始まっているのだな、と思う。
しかしその「ブーム」の根源が、どこに起因するのかわたしにはさっぱりわからない。男の子の「おれ」はわかる、たぶん戦隊ヒーローとかが「おれ」って言っていたりするのだろう。しかし、女の子の「うち」は?アニメのヒロインはいつでも「あたし」と言っている、ような気がするのだが…。

しかし世の中には、このレールに乗らない、あるいは乗れない人も確実に存在している。例えば高校時代に、いつでも「ぼく」を使っている女の子がいた。その子は見た目は髪が長く、性自認が男だから「ぼく」を使っている、というようには見えなかった。ただその子はなんだか浮世離れした雰囲気を身に纏った子で、わたしには彼女は性別がどうこうというよりは、なんだか現実社会と自己を切り離し、一人別の世界を生きるために「ぼく」を使っているように見えた。
それを思うと、一人称というのは性別だけではない自己の根幹の部分の形成に携わっている、我々にとってものすごく影響を当てる存在なのかもしれない。

そして、日本語における小説や歌詞などの「言葉の世界」において、この一人称はすごく大きな役割を担っているのだな、とも実感するのである。


例えば、わたしはaikoの曲が好きだ。歌詞が好きだ。
aikoの歌詞のは基本的に「あたし」なのだけれど、ときどき「僕」で書かれることがあって、そのことをaikoは「『僕』を使った方が思ったことを素直に書けるんですよね」と述べている。だから、「僕」が使われているaikoの曲は聴いていてヒリヒリしてしまうような失恋ソングが多い。

aikoにとっては、自分の心情を吐露するために敢えて自分とは異なる一人称を使用しているわけで(自信を客観視して苦しくなりすぎずに吐き出すことができるということなのだろうか?)、これは他の一人称が一つしかない言語では絶対にできない技で、こんなことに思いを巡らすたびにわたしは日本語の持つ表現の多様さに魅了されてしまう。


で、こんなことをごちゃごちゃと考えていると、男女問わず使える最近のネットスラング「ワイ」って、実は性の垣根を超えた日本語史に残るすごい一人称なのでは?なんてことを思ったりしてしまうのでした。ちゃんちゃん。

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沙波

さわと読みます。スイス留学から帰ってきた大学4回生。小説と映画と絵画と猫とダンスが好き。フォローお気軽に。
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