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春になったらヨーグルトを(小説)


「ヨーグルトって、花粉症に効くらしいよ」

あれは確か3月の春休み、二人で初めて出かけた日のこと。
ひどい花粉症持ちで、話しながら絶え間なくくしゃみをしていたわたしに向かって、花粉症持ちでないあの人は真剣な眼差しでこう告げたのだ。まるでどこかの国の崩壊のニュースを伝えるみたいに。
「いや、効くわけないでしょ。そんなんで治るんだったらもう五年前に花粉症治ってるよ」
毎日くしゃみと鼻水に苛まれて半分自暴自棄になっていたわたしは、呆れながらこう返し、ぬるいカクテルを口の中に流し込んだ。何も食べずに飲んでしまったからか、胃にいつもよりもじんわりとアルコールが沁みていく。
普段はあまり酔わないわたしだけれど、なんだか今日はひどく酔ってしまうかもしれない。この人にはいつも調子を狂わされる。でもその崩壊が同時に少し心地よくもあるから、なんだか不思議なものだ。

「でも俺の友達がさ、本当に治ったって言ってたんだよ。この前ツイッターでもバズってた」
「え、それはちょっと信憑性あるかも。いつもと違って」
わたしが敢えて目を大袈裟に見開きながらこう返すと、あの人は目をきゅっと細めて息を漏らすように笑った。あ、消えないで、と願った目尻のしわは、一瞬であの人の肌の一部に呑み込まれて還ってゆく。
「いや俺いつも本当のことしか言わないからね」
「えー、結構適当なこと言うじゃん」
「俺のことなんだと思ってるの」
そう言いながら、あの人はその友達のツイートを遡っていた。
スマホを見つめ伏せたまぶたにはまつ毛が長く伸びていて、なんだかわたしのマスカラが馬鹿らしいものに思えてくる。画面をタップする指もすごく細くて、わたしの手なんかよりずっと綺麗だ。

「ていうかそんなに辛いならマスクすればいいじゃん。なんで今日してないの?」
あの人は唐突にスマホから顔を上げ、キョトンとした顔でわたしを見つめた。不意に交わった視線の向こうに揺れる黒い瞳はなんだか宝石のようで、わたしは吸い込まれて一瞬息ができなくなってしまった。
「なんでって…忘れたから…?」
わたしは首を傾げながらしどろもどろに返事をし、あの人はなんだよそれ、と言いながら再び目尻をきゅっとすぼめて笑い、スマホに視線を戻した。
そんな姿を見ていたら、あぁわたしはずっとこの人に会いたかったのかもしれないな、と気がついた。
マスクをしたくなかったのは、わたしそのものを見てほしかったからだ。

「あーこれこれ!」
そう言ってスマホをそっと手渡され、小指同士が一瞬触れて、その瞬間に小指に全神経が集中したような心地になる。一度起こされた想いは、以前とは比べ物にならないほどの速度で加速してしまう。
胸の高鳴りを必死に抑えて画面を眺めると、ヨーグルトを毎日食べていたら花粉症が治った、という内容の四コマ漫画が載っていて、確かに数万のいいねが来ていた。これだけの日本中の多くの人が反応しているのを見ると、本当に効果があるように思えてくる。Twitterって、催眠術みたいだ。
「まぁ、だからとりあえず試してみ。今日絶対ヨーグルト買って帰ってね」
そう言いながらあの人はビールを一口飲んだ。喉仏が生き物のように上下に緩やかに動く。
「うーん、まあ気が向いたら買うわね」
「ちなみに俺はブルガリアヨーグルトが好きだよ」
「じゃあビヒダス買おっかな〜」
溢れてくる暖かい感情がこそばゆくて、素直になれずに軽口を叩いてしまう。
「ねぇ、俺の話聞いてた?」
そんな適当な会話を交わしていたら、注文したピザが運ばれてきた。あの人の大好物であるクアトロフォルマッジョ。本当はビスマルクが食べたかったのだけれど、あの人が今日はチーズが食べたいとこぼしたから合わせたのだった。
二人で一緒にいただきますをして、果てしなく伸びるチーズに興奮しながら一枚口に運ぶ。
「でも花粉症の人ってほんとに可哀想。俺花粉症じゃなくてよかった」
「うるさいわ」
わたしは大げさにあの人を睨みつけ、そのまま二人で目を合わせて笑った。
仕草をひとつずつ知っていくことが、共有している時間が1秒ずつ重なっていくことが、とにかく嬉しくて仕方がなかった。

そしてその日から、帰りに駅前のスーパーでヨーグルトを買って帰るのが、わたしの日課になった。いつかほんとに治ったよ!と、笑いながら報告したくて。
ヨーグルト売り場の前に行くたびに、わたしはあのはじまりの気持ちを思い出した。それはわたしの心にいつも暖かく灯るろうそくの炎で、どんなに落ち込んだ日でも照らし続ける光だった。


あれからもう、三度目の花粉症の季節がやって来る。
毎日ヨーグルトを食べるようにしているけれど、未だに2月ごろから鼻がムズムズし始めて、四月半ばまで相変わらずの鼻水地獄を過ごしてしまう。薬を飲んでもムズムズは治ってくれなくて、むしろ悪化している気すらする。

効果なんてなかったよ。いつもいつも、適当なことばかり言ってさ。

そうわかっているのに、この時期にスーパーに行くといつも、ついわたしはブルガリアヨーグルトに手を伸ばしてしまう。
その習慣は、あの人がわたしのそばにいた唯一の証のようなものだから。

花粉症は、何歳で発症するかわからないという。
あの人、花粉症なったかな。なってたらいいな。それでわたしのことを思い出して、ヨーグルトを買いに行っていればいいのにね。

そんなことを思いながら、今日も食後に一人でヨーグルトを食べる。今日はなんだかビタミンを摂りたい気分だったから、苺を切って入れてみた。毎日食べているおかげで、脳内には無限のアレンジレシピが埋め込まれているのだ。
砂糖を少しふりかけて、いちごの大きなかけらと共にスプーンで口に運ぶ。

やっぱり今日もヨーグルトは酸っぱい。



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