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報道の向こう側に生きている人々を


本日、大津市で園児が車に突っ込まれ死亡した事故における、保育園の会見映像が世間を賑わせた。


わたしも会見の動画をYoutubeで観て、園長先生の涙を観ながらボロボロと泣いてしまった。朝、自分に笑顔を向けていた子供が、もういない。輝いていた命はあっという間に散ってしまった。そのことを冷静に受け止められる人間がこの世にどれだけいるというのだろう?



残された側が、とりわけ自分よりも若い身近な誰かを失ってしまった人間が思うこと、それは「自分だったらよかったのに」という圧倒的な自責の念ではないだろうか。自責だけではなく、この事故で言うならば「ルートを変えていれば」とか「後5分遅く出ていれば」とか、もう叶わない過去に対する絶え間ない後悔や、あったかもしれない別の現在への意味を成さない執着。


「出発直前の園児たちの様子は、いつもと変わらなかったでしょうか?」

いつもと変わらず出て行ったに決まってる。死を予知できる人間は誰一人として存在しないのだから。子供たちの最後の瞬間を思い出させるのは、園児がもうこの世にいないという事実を改めて突きつけるということで、それは残された人間をわざと感情の海へと突き落とすようなものだ。こんな質問、泣いてしまうに決まってる。他の質問は正しい情報を知るために必要だったのは理解できたけれど、この質問だけはまるで追い詰めたかったように思えてきてしまう。


この保育園の関係者たちは、マスコミに会見をした上で、亡くなった園児たちの家族にも謝罪をするだろうし、保護者たち相手に保護者会を開くなり手紙を発行するなり事情説明が求められるだろうし、気が動転した保護者に責められてしまうかもしれないし、心に傷を負った園児たちのケアもしなくてはならないだろうし、ますますマスコミに追われるかもしれないし、とにかく激務に追われることだろう。

そしてその日々の中で、この園長先生のような、幼稚園側の関係者の方々が、自分のためだけにひっそりと泣くことはできるのだろうか。「生徒を守れなかった先生」としてではなくて、「大切な人を失ったひとりの人間」として、自分の悲しみとしっかりと向かい合ってただただ泣く時間を、作れるのだろうか。

どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。

この会見を見ていてわたしの胸に浮かんだのは、『ノルウェイの森』の下巻にあるこの文章だった。哀しみは、哀しみ抜くことでしか対処ができない。しかしそこで哀しみ抜けないと、その哀しみは歪な形で胸にこびりつき、私たちをいつまでも縛り付ける。そしてその癒えない傷は時に人々を果てへと追いやる。だから、きちんと哀しみ抜いて自分の心で別れを告げるための時間が必要なのだ。

わたしはこの事故に関してはれっきとした部外者だけれど、それでもこの事故の関係者の気持ちを考えずにはいられない。関係者全員が自分の哀しみとしっかりと向かい合い、自分のためにたくさん泣き、傷が完全に癒えることはないだろうけれど、少しでも自責の念を減らして生きていけることを静かに祈っている。


報道を見るたびに思う。事件・事故に巻き込まれる人間は、見世物じゃない。ドラマの登場人物じゃない。私たちと同じように日々を積み重ね、喜んだり悲しんだりする、れっきとしたひとりひとりの人間だ。

今後同じような事故を防ぐために、そして社会に真実を届けるために、事故状況の説明が、そして正しい情報の提供が必要だったのは充分に理解できる。マスコミが全て悪いと言いたいわけではない。それでも、事件に巻き込まれた人々の痛みを直接抉るような方法ではなく、もっと別の、痛みに寄り添えるような報道ができたのではないかと思わずにはいられない。

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