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優しさはささやかで、しかし力強い波となって


私の留学先に、二週間の語学留学で同じ大学から三人の後輩がやって来た。日本にいた時は知り合いではなかったけれど、せっかく同じ大学から来てくれたのだから、と我が家に招待して、みんなでスイス名物であるラクレットを食べた(私のアパートにはなぜかラクレットマシーンが置いてある)。すごく喜んで帰ってくれて、その無邪気な笑顔に心のスイッチを押されて、今こうしてパソコンと向かい合っている、そんな次第だ。

おそらく今までの私だったら、彼女たちに会っても、知り合って話すだけで終わってしまっていただろう。それでも今日、「うちに呼んでご馳走する」という選択肢を取れたのは、私自身の、こちらに来てからたくさんの人に優しくされた記憶に起因するのだと思う。

今はもうこんなに馴染んだけれど、私は適応能力が結構低い。来たばかりの頃は毎日不安で仕方なかったし、常に日本に帰りたいと思っていた。
毎日毎日、自分の言語能力の低さに打ちのめされ、友達の作り方もわからなくて、こんなんで留学後に日本に何かを持って帰ることができる気もしなくて、何のために留学に来たのかがわからず、ただただ愕然としてばかりいた(おぼろげな不安に足を取られてとことん落ち込んでしまうのは、私の短所のひとつであると思う)。

そんなときに私を救ってくれたのは、紛れもなくスイスでできた友人たちだった。まだ数回しか会ったことがないのに家に呼んでくれた人がたくさんいて、家族や友人と共に、温かいおもてなしとささやかな励ましをくれた。その優しさは私のごりごりに固まっていた心をほぐしていった。

「親しくない人を家に呼ぶ」というのは、日本では稀有なことであるような気がする。日本においては、もともと親しい人たちが、さらに親しみを深めるためにある空間、それが家だ。
でもこちらで過ごしていると、家というのは親しくない人々と親しくなるためにある空間なのではないかと思えてくるのだ。親しくない人でもとりあえず懐に入れてみて、他に誰もいない空間で温かい料理と共にじっくりと語り合う、そしてその温かさが少しずつ心の壁を溶かしていき、帰る頃にはすっかり親しくなれている。そんな空間が、こちらの家。

だから私は今日、彼女たちを家に呼んだ。彼女たちも一人で海外に来ていて、それはきっと短い期間とはいえど心細い瞬間は確実にあるわけで、きっと分かち合えることがたくさんあるのではないかと思ったから。
会った瞬間や、我が家に着いてからしばらくは、落ち着かなかったり会話が途切れたりしていたけれど、スイスのチーズの美味しさの共有を経て、食後のお茶を飲む頃にはみんなよく笑っていたし、私自身も自由に話せていた。それがすごく嬉しかった。

人に優しくされた人が、人に優しくなれるのだと思う。優しさというのは、ささやかで、しかし力強い波のように、人に伝わって広がっていくものであるのだ。

人が人を変えることも、世界を変えることも不可能だけれど、それでも私はこうやって、私の心に灯った小さな暖かい炎を、他のろうそくに移すみたいにそっと、少しでも、周りの人々に広げていけたらいいなと思っている。それが私の世界にできる最大の恩返しだ。


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