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青い初恋の物語


いったいどんな人生を歩んだら、こんなにも温かくて切なくて愛おしい物語を紡ぐことができるのだろう。よしもとばななの描く物語は、いつもいつもわたしの胸に切なさとエネルギーを溢れさせる。揺れる心に身を任せしくしくと泣いてしまいたい気持ちと、叫びながら自転車で全力疾走したいような気持ちが、嵐のように胸の中に溢れかえる。

今日紹介するのは、よしもとばななの小説「うたかた」だ。テストが終わって久々に読み返してみたら、案の定再びその世界観に魅了され、感想を書かずにはいられなくなってしまったのだ。

まずは、あらすじを軽く紹介しておく必要があるだろう。文庫版の裏のあらすじを引用すると、「複雑な家庭環境の中、これまで会わずに育った『兄弟』が出会った瞬間から恋を育むー。」少し訳ありなボーイミーツガールの物語だ。


わたしはいつも小説を読むときは、文章から色や音楽など、あらゆるイメージ、テーマを添えることにしている。そして今回のnoteでは、それらのイメージについて話したい。

今回の「うたかた」のイメージカラーは、青。
そしてイメージソングは、宇多田ヒカルの「初恋」だ。

まずは色について。色というのは、しばしば感情の象徴として用いられることの多いテーマの一つだ。そしてある感情に付随して想起されるイメージは、国や文化によって異なることが多い。例えば日本において嫉妬は赤で表されることが多いけれど、イギリスをはじめとした欧州の文化においては、"green with envy"といった慣用句からもわかるように、緑がその代わりに用いられている。

でも、青だけは、世界中で普遍的に悲しみを想起させる色として用いられているのではなかろうか。もちろん全ての文化における色の表彰について網羅しているわけではないけれど、英語では落ち込んでいることをfeeling blueというし、日本語でも同様だし、アフリカでは藍色が葬式の際に身につけるべき色であるらしいし、フランス映画「アデル、ブルーは熱い色」においては、失恋したアデルが真っ青な海に身を沈めるシーンが記憶に新しい。

そしてその青=悲しみの、世界における普遍的な悲しみの象徴の色のイメージが、この物語においては絶えず散りばめられている。

 それでも嵐を好きになってから私は、恋というものを桜や花火のようだと思わなくなった。
 たとえるならそれは、海の底だ。
 白い砂地の潮の流れに揺られて、すわったまま私は澄んだ水に透けるはるかな空の青に見とれている。そこではなにもかもが、悲しいくらい、等しい。
(『うたかた』文庫版p,9)
 淋しさというのは、いつの間にか、気がつかないうちに人の心にしみてくる。ふと目覚めてしまった夜明けに、窓いちめん映るあの青のようなものだ。そういう日は真昼、いくら晴れても、星がどんなにたくさん出ても、心のどこかにあのしんと澄んだ青が残っている。(p.24)


話の筋は、ボーイミーツガールの爽やかな物語であるはずなのに、これらの青のイメージの挿入が全体の雰囲気にどこか物悲しく寂しい印象を与えている。主人公の名前の「人魚」、恋をする相手となる「嵐」、そして物語タイトルの「うたかた」これら全てもその青のイメージの提供に一役買っている。

そしてその青から思い起こされる悲しみ、淋しさ、人を好きになることのどうしようもなさ。

 人を好きになることは本当にかなしい。かなしさのあまり、その他のいろんなかなしいことまで知ってしまう。果てがない。嵐がいても淋しい、いなくてももっと淋しい。いつか別の恋をするかもしれないことも、ごはんを食べるのも、散歩するのもみんなかなしい。これを全部 ”嬉しい” に置き換えることができることも、ものすごい。(p.67)


この物語においては、誰もがどうしようもなさを抱えている。常にぽっかりと胸に空いている淋しさも、どんなに近づいても立ち入れない心の闇も、一緒にいると苦しい相手と離れられない情けなさも、あらゆる人間の持つ弱さが、それぞれの恋を通して浮かび上がってくる。

恋をすると人は弱くなる。というか、心の弱い部分がむき出しになって晒される、と表現したほうがいいかもしれない。それでもその弱さの中には確実に強さが潜んでいて、わたしはその「愛する女性」の強さに心の底から憧憬の念を抱く。

例えば、主人公人魚の母親。人魚の父親は、人魚の母親と結婚していない。彼女はずっと彼の恋人で、人魚と母は生活費を与えられながらずっと二人で暮らしている。客観的に見たら、子供を作りながら籍を入れないなんてとても身勝手であるし、そんな男からはさっさと距離を取った方が賢い選択ではあるように思えるけれど、彼女はどうしても彼から離れることができない。

物語後半で、人魚が母親に父親について尋ねる場面がある。

「どうして、お父さんなの?」
「だって、あれよりも誰も好きになれないんですもの。もう決めたのよ。」と母はきっぱり言った。(p.87)


彼女が彼から離れられないのは弱さであるし、振り回されて寝込んでしまったりもするくらいなのだけれど、同時にそれは「ずっと愛すると決めた」という、不断の覚悟に基づくものすごい強さでもあるのだ。誰かを愛し続けるという決意も、それを貫き続ける信念の強さも、生半可な覚悟では達成し得ないだろう。

個人的には、人魚の母親は『ノルウェイの森』のハツミさんに通ずる覚悟と強さを持ち合わせた女性だと思っている。人魚の母も途中で身体的にも精神的にもかなり参ってしまうし、ハツミさんも死を自ら選んでしまう。この二人を見ていると、強さと弱さはいつでもコインの裏表のような存在で、恋というのは人を最強かつ最弱にしてしまう恐ろしい代物なのだなぁ、なんて思えてくるものだ。


随分話が逸れてしまった。次は、イメージソング「初恋」について話したい。

皆さんは「初恋」という言葉から、どんな恋を想像するだろう。
少女漫画のような、甘酸っぱくてキラキラした片想い?それともまだ恋ともわからないような、友情との境界線上に存在する淡い想い?
少女漫画やドラマやJ-POPでは、こういった類の描かれ方をすることが多い。

しかし、「うたかた」と「初恋」においては、初恋をもっと強烈な、世界を塗り替えるような、人生におけるターニングポイントとなるような存在として描いているのだ。

 かけ値なしの、そんな感情を私は他人に対して初めて抱いた。なんのフィルターも、余分な気持ちのごちゃごちゃもない、まっさらの感情。嵐といると、私は自分が生物だと、思えた。そんなことを今までの人生で実感したことはない。(p.48, 49)
もしもあなたに出会わずにいたら誰かにいつか
こんな気持ちにさせられたとは思えない
...
もしもあなたに出会わずにいたら 私はただ生きていたかもしれない
生まれてきた意味も知らずに(「初恋」)


そう、「生の実感をもたらすもの」。
これが、「うたかた」と「初恋」における初恋の定義だ。
冒頭にも述べた通り、わたしはこの小説からも、この曲からも、いつもいつも途方のない切なさと、強烈なエネルギーを受け取る。それはやはり、これらの作品を通してその「生の実感」を得ているからなのかもしれない。

そしてやはり「初恋」も、「うたかた」同様に恋愛感情をかなしいものとして描いている歌だ。

うるさいほどに高鳴る胸が 柄にもなく竦む足が今
静かに頬を伝う涙が私に知らせる これが初恋と
...
言葉一つで傷つくようなヤワな私を捧げたい今
二度と訪れない季節が終わりを告げようとしていた 不器用に
(「初恋」)

「うるさいほどに」「竦む足」「頬を伝う涙」「言葉一つで傷つく」「終わりを告げようとしていた」…これらの歌詞は、ネガティブで悲しくて、でもだからこそまだ愛を知らない初恋の、きらめきに満ちながらも窮屈で苦しくて仕方がない、そんな様子を表しているのだ。

そう、恋をすることは、生きることは、かなしい。

それでも。

アンデルセンの「人形姫」のラストにおいて、人魚姫は自ら命を絶ち泡に姿を変えるが、「うたかた」の中では、人魚は生き続け、タイトルに反して泡になることもなく、希望と共に嵐を待っている。従来の童話に対するアンチテーゼのように。

現実世界においては、どんなに恋が、人生が悲しいものでも、そこには必ず希望があるのだと、光は存在するのだと。
その悲しみと喜びのバランスは、わたしが今までの人生で感じてきた正負の感情のバランスにとても似ていて、だからこそわたしはこの物語に強烈に惹かれるのだろうな、なんて思うのだ。



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