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文学が与えてくれる力


今日、たまたまこんな記事を見つけました。

トヨタの公式ツイッターが、女性ドライバーに「やっぱり車の運転は苦手ですか?」と質問し、炎上。これについて情報番組「スッキリ」の中で議論が巻き起こるのですが、これに関してロバート・キャンベルさんは以下のように述べました。

「"やっぱり"という日本語を辞書で調べると『案の定』『予測したとおり』。世界一のメーカーのトヨタが女性に対して"やっぱり"車の運転って苦手ですねって誘導をしてるんです。(略)『女性は、やはり案の定思ったとおり』苦手だよねって」
「これはトヨタが不特定多数の人たちに、特に車を運転する女性たちすべてに向けた広報なんです。その文脈ということを考えると『やっぱり』という一言、日本語の訴求力を考えると、『えーよくこれ通るね』と」


彼は、やみくもにこれは偏見だ!と批判するでもなく、騒ぎすぎじゃない?と相手の立場を想像せずに俯瞰するでもなく、「世界的メーカーが、広報を目的としたメディアの中で、『やっぱり』という言葉を用いて、『女性は運転を苦手だと思っている』ということを肯定するように誘導したという点が問題だ」と、その問題点を具体的に述べているのです。

わたしは、その背景を想像した上で問題点を的確に指摘できる彼の思考の柔軟さに、感銘を抱くと共に舌を巻いてしまいました。もともと視野の広い人だとは思っていたけれど、それにしてもなんて頭が良くて素敵な人なのだろう、と。

そしてその彼の圧倒的な思考力は、文学によってもたらされたものなのではないかと思ったのです。

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先週、ある授業で人間関係について考えた、と書きましたが、今週のこの英文学の授業がちょうど、この問題について考えさせてくれるきっかけでした。
今週読んだのは、チョーサーのカンタベリー物語の、"The Franklin's Tale"という物語。あらすじはこんな感じ。

ArveragusとDorigenという愛し合っている夫婦がいたのですが、Arveragusは大ブリテン島に修行をしに旅立ってしまいます。そこでDorigenにAureliusという青年が恋をし求婚するのですが、Dorigenはそれを断るために、絶対に起こりえない満潮を起こすことができたらあなたを愛する、と約束してしまいます。そこでAureliusは兄(弟)と共に、魔術師(実際に奇跡を起こすというよりは起こしたように見せかけることを生業とする人)に頼み、まるで満潮が起きたかのように見せます。約束をしたからには彼を愛さなければいけない、でもそれなら死ぬほうがマシ、と考えたDorigenは自殺を決意するのですが、そこで夫のArveragusが帰ってきて…という、なかなかにドロドロとした昼ドラのような物語です。

ここで驚いたのが、その一連の出来事を知ったときのArveragusの反応。「約束は守らなければならないから、Aureliusと関係を持ちなさい」と言い放つのです。Dorigenは嫌だと言っているのに。

Dorigenにとって「良き妻である」ということは、夫に操を立てた妻であると共に、夫の言うことに従う妻であるということ。しかしここで夫の命令に従うと、夫以外の男性と関係を持つことになってしまうから、「良き妻」ではなくなってしまう。この矛盾がDorigenを苦しめます。

結果的に苦しむDorigenを見てAureliusは約束を反故にしArveragusの元に彼女を返すのですが、その前までのDorigenの苦しみ様は目も当てられないほどでした。

そもそも、なぜDorigenはAureliusが満潮を引き起こすのに成功した時点で自殺しようとしたのでしょうか
それは、異性と強制的に関係を持たされた女性=罪、と見なす風潮が、古くからずっと存在していたからです。すなわち、ただ単に強制的に関係を持たされるだけではなくて、「罪」「穢れ」という概念が付随する存在になってしまう。そのように二重の意味で犠牲者になってしまうくらいなら、死んだほうがマシだ、とDorigenは考えるのです。

そしてDorigenの生きる社会においては、この考え方は抗いようのない事実だった。現在の私たちが客観的に考えてみたら、女性側が罪だなんてことは決してなくて、100%男性側が悪いのだけれど、「文化」「伝統」という壁に覆われているDorigenは、自らを責める他に手段を持ち合わせていないのです。

先生は、「チョーサーはこの物語の中で、レイプされた女性は本当に罪深い存在なのか?という問いを通して、私たちが当たり前だと思っている考え方が本当に当たり前だなんてことは決してないのだから、全てのことを自分の頭でもう一度考え直す必要がある文化なのだから仕方ない、と切り捨てるのは簡単だけれど、それでも立ち止まって考えて欲しい、と伝えているのです」と仰っていました。

そしてその言葉を聞いたとき、「文学」の真の価値が目に見えたような気がしたのです。

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わたしが個人的に、人間って恐ろしいなと感じる瞬間、それは、「善悪の価値観の決定的な基準を持たず、流されてしまう人間が一定数存在していること」だと思っています。

「これは悪なのが当たり前だから悪なんだ」「みんながいいといっているからいいんだ」と、善悪の判断の理由を考えることを放棄して生きてしまっている人間は、一定数存在しています。それが、最近のネットにおける炎上の多さの原因なのではないでしょうか。「みんなが怒っているから多分これはよくないことなんだ!私も怒ろう!」という思考回路。

しかし、それでいいのでしょうか。大衆が善悪を見極められずに流されたから、ナチスはその台頭を許されてしまったし、黒人と白人は当たり前に差別されてしまっていた。私たちはそんな時代から結局変われていないのでしょうか。

善悪の価値観は、白黒はっきりしているものではありません。もちろん何があっても許されてはならない悪というものも一定数存在しているけれど、だいたいの善悪の基準は淡いグラデーションのようで、ある状況においては悪となる行為も状況が異なれば善となる場合もあるのです。その基準を、理由を、私たち人間は自分の頭で考えなければならないのではないでしょうか。20世紀という負の歴史を抱えた時代の先に生きる、私たちだからこそ。

そして、どんな状況において、何が善で何が悪なのか、その境界線を自分の頭でしっかりと考えて見極める能力、文学が与えてくれるのはそれらの「考える力」なのではないかと思います。先ほどの”The Flanklin's Tale”で、わたしが考えさせられたみたいに。

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先ほどのトヨタのツイッターの件において、ロバート・キャンベルさんは、「広報を目的とする媒体において『やっぱり』という誘導するような言葉を選んだことが問題」と、自分の判断基準をしっかりと述べた上で、グラデーションの途中の色をきちんと指し示しています。

彼がこのように言えたのは、人生においてこの上ない数の文学作品に触れ、登場人物の言動や心の機微を通してその背後に眠る作者の疑問を読み取って、その疑問について自身の頭の中でずっと考えてきたからなのではないでしょうか。

考える人間は、誰よりも強いし、魅力的です。

それがわたしが、どんなに周囲から「文学なんて学んで何になるの」とか「就活で役立たないよ」と言われても、大学が政府から予算を減らされて不当な扱いを受けても、それでもずっと文学を学び続けることをやめられない、唯一で最強の理由なのだと思います。

わたしもいつか、ロバート・キャンベルさんのように、広い視野を持って自分の頭でしっかりと考え、それを的確に表現できる素敵な人間になりたい、そう強く願うのでした。





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