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恋という宇宙を覗いてみたいあなたへ


昨年九月、渡航直前に公開だったため見逃した『寝ても覚めても』をようやく留学先で鑑賞した。友人が酷評してたのでなんとなく不安だったのだけれど、わたしにはすごく面白かった。個人的には原作本より映画の方が好きだ。ていうか原作小説と映画は全く別の物語だと認識していいと思う。
(また軽くネタバレありますのでご注意ください)

観てなくてもネタバレOKでこのnoteを読もうとしてくださってる方のために、まずは公式サイトからあらすじを紹介。

東京。
丸子亮平は勤務先の会議室へコーヒーを届けに来た泉谷朝子と出会う。ぎこちない態度をとる朝子に惹かれていく亮平。真っ直ぐに想いを伝える亮平に、戸惑いながら朝子も惹かれていく。しかし、朝子には亮平に告げられない秘密があった。亮平は、2年前に朝子が大阪に住んでいた時、運命的な恋に落ちた恋人・鳥居麦に顔がそっくりだったのだ――。
5年後。
亮平と朝子は共に暮らし、亮平の会社の同僚・串橋や、朝子とルームシェアをしていたマヤと時々食事を4人で摂るなど、平穏だけど満たされた日々を過ごしていた。ある日、亮平と朝子は出掛けた先で大阪時代の朝子の友人・春代と出会う。7年ぶりの再会。2年前に別れも告げずに麦の行方が分からなくなって以来、大阪で親しかった春代も、麦の遠縁だった岡崎とも疎遠になっていた。その麦が、現在はモデルとなって注目されていることを朝子は知る。亮平との穏やかな生活を過ごしていた朝子に、麦の行方を知ることは小さなショックを与えた。
一緒にいるといつも不安で、でも好きにならずにいられなかった麦との時間。
ささやかだけれど、いつも温かく包み、安心を与えてくれる亮平との時間。
朝子の中で気持ちの整理はついていたはずだった……。

(『寝ても覚めても』公式サイトより)


ちなみに物語後半にて、朝子は亮平を大きく裏切る行為をしてしまう。未鑑賞の方にはその衝撃を取っておいてほしいので、ここでは「あの行為」と呼んで話を進めていく。



鑑賞中、わたしはずっと胸の中に静かな嵐がやってきているような感覚を抱いていて、朝子の表情と仕草を見つめながら、その嵐の正体はなんなのだろうと静かに胸の奥をまさぐっていた。そして暗い森を抜けるみたいに一つの結論に辿り着いた。

わたしの中にも朝子はいるじゃないか。


亮平を初めて観たとき動けなくなった朝子を、逃げ続けてしまう朝子を観ながら、心の中から大量の虫が這い出てくるような、得体のしれない感情が自分の中に湧き起こって来るのを感じて、そしてそれは朝子自身の抱いている気持ちとシンクロしているのだと気が付いた。

それはいうならば恐怖と混乱を一対一でマドラーで混ぜたような気持ちで、わたしと朝子の境界をゆるやかに溶かしてゆく。気がつけばわたしは朝子で、亮平は「誰か」で、わたしは息がうまくできなくなってくる。


朝子が東京にくるまでの間に何があったのか、それは省略されていて、一鑑賞者のわたしは知ることはできない。
唯一わかるのは、「朝子の中で麦との物語は終わっていない」ということ。

だって、一晩ふらっといなくなっただけであんなに動揺して泣き出すくらいの、そんなにも好きな相手が「さよなら」も言わずにいなくなって、「あのひとはもう帰ってこないのだ」という事実を受け入れ、咀嚼し、吞み下すためには、一体どれほどの時間を要することだろう。ていうかそもそも可能なのだろうか、そんなこと。

人の気持ちにスイッチはない。「はいいなくなりました、じゃあ気持ちを消しましょう」なんて無理だ。いや、相手によってはそれができる場合もあるだろうけれど、何を努力してもそれができない相手というのもこの世には絶対に存在していて、朝子にとって麦はそういう相手だった。

だから、朝子にも、麦にも、亮平にも、「あの行為」は必要だった。
麦とのことを「過去」にして、新たな「朝子」として亮平に向かい合うために。あのとき言えなかった「バイバイ」をきちんと互いに伝えて、2人でその物語に終止符を打つために。

「あの行為」がなければ、朝子はずっと「麦を好きだった朝子」としてしか亮平と向かい合うことができなかった。そんな自分が苦しかったから朝子は自ら亮平に麦との過去の恋を申告したのに、亮平の愛ゆえに朝子は許されてしまって、だから朝子は変われなかった。あのとき亮平が怒っていたら、朝子はもしかしたら「あの行為」には出なかったかもしれない。

「あの行為」は倫理に反した許されてはならないことであって、それは揺るぎようのない事実だ。朝子自身も亮平に、「許されるなんて思ってない」と言っている。

それでもわたしは自信がない。もしもわたしに同じことが起こったら、果たしてわたしはその手を取らずにいられるだろうか?

淡々とした日々の生活、穏やかな関西弁の裏に潜む、優しい朝子の微笑みの奥にある、静かな狂気。「恋」という不確かで危うい、何よりも身近な狂気。その狂気の火種はいつでもわたしの中に眠っていて、誰と出会ってどんな風に燃え上がるかわからない。そしてそれは、どんなナイフよりも鋭く深く誰かをひどく傷つけてしまうものであるかもしれない。

物語後半で、わたしと朝子の境界線はすっかり溶けきってしまっていることを知る。


そもそも「見た目が似ている」というだけで亮平を好きになるのはどうなの、という意見もあるだろう。この点に関してもやはりわたしは朝子を否定することはできない。

東京タラレバ娘にこんな台詞がある。

初恋の人に似た人を好きになるのって、自然なことじゃないですか


誰かを強烈に好きになったことのある経験のある友人何人かと話すと、そこにひとつの普遍的な法則が見えてくる。それは、「その人を好きになって以降、その人となんとなく似ている人ばかり好きになってしまう」というものだ。

それは、たまたまそれが個人の好みであるだけかもしれないし、似ているから好きになったのかもしれないし、好きになったから似ているように思えてくるのかもしれないし、結局いつまでも好きなのはかつて強烈に好きになった相手だけなのかもしれない(4つ目の可能性ほど恐ろしいものはない)。これを考えるのは、鶏が先か卵が先か問題のようで、果てがない。

このような、たった一つの単純な「人を好きになる」という行為の裏に隠れた、どこまでも広大なユニバース。その宇宙の深遠さを垣間見てみたい人は、ぜひ『寝ても覚めても』を鑑賞してもらいたい。


(ちなみに海外タイトルは"ASAKO I& II"で、個人的には物語の本質をうまく掬い取ったタイトルだなぁ、と思っている。先の段落で「変わる」という言葉を使ったけれど、その変化こそがIとIIで、Iとは、「麦を好き/好きだった朝子」のことで、IIは「麦抜きで亮平と向かい合っている朝子」のことだ。ずっと静かで人形のようだったかつての朝子と、ラストに亮平に向かって叫ぶ朝子はまるで別人だ。)


やはり邦画の恋愛ものは面白いものが多いなぁ。とりあえず次は『愛がなんだ』を観て「愛ってなんだ」って絶望したい…。原作本、積読したまま日本に置いてきてしまったのが悔やまれる。『寝ても覚めても』の原作本も帰国したら読み返してみよう。


↓『寝ても覚めても』公式サイト/予告編


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