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本当にそれ、「必要ない」のかなぁ


最近、表現の世界において、設定や表現がジェンダーや多様性を意識したものへとアップデートする動きが見られているように思えます。

一番話題になったものでは、映画アラジン。#MeTooを意識したジャスミンのソロ曲"Speechless"が新曲として追加され、話題になりました。
他にも、留学中に観たミュージカルでメインキャストが黒人だったり。
映画やドラマの中に、自然とLGBT当事者の存在が描かれていたり。

私は小説や映画や絵画やミュージカルなど、「表現」が大好きです。人間の「表現」に触れるたび、私はその世界の登場人物と出会い、対話をし、新たな自分と出会えるから。心臓を直接弄られるみたいに感情が突き動かされ、自分が生きているのだと痛感するから。

そして、その感想を友人たちと分かち合う瞬間もとても好き。
物語は、それぞれの人生を反映してその姿を変えるものだから。
同じものを見ているはずなのに、色が違う、匂いが違う、温度が違う。違う人の感想を通して再び泳ぐ物語の海の果てに見える、自分が一人で泳いでいたときに見えていたのとは異なる景観の美しさに、私は何度だって恍惚と見とれてしまいます。


しかし。
そんな感想の最中に頻繁に巡り会うのが、先に述べたアップデートに関する「必要なくない?」という言葉。

「女性の権利が大切なのはわかるけど、この作品でやる必要なくない?」
「黒人の権利が大切なのはわかるけど、この作品でやる必要なくない?」
「LGBTの権利が必要なのはわかるけど、この作品でやる必要なくない?」

世の中の意見はそんな「必要なくない?」で溢れています。
でもそれって本当に、「必要ない」のかなぁ。

自分が嫌いな存在を、そしてその表現を、主語を消すことでマイルドにヘイトしているだけなんじゃない?
私にはなんだかそう思えてきてしまうのです。

もちろん、その人たち自身を否定するつもりはありません。
誰にだって差別の種は眠っているし、私だって自然と差別的なことを言ってしまうこともあるし、そもそもそれらのアップデートに関して嫌な気持ちが湧き上がってしまうのは、その作品に対する深い愛を抱いているゆえの発言だと理解できるから。

それでも、こう言った発言を聞くたびにモヤモヤしてしまうので、そしていつもそこで空気に呑まれて自分の意見を言えなくなってしまったので、こうして考えてからnoteにまとめてみることにしたのです。


私の意見は、一見「必要がない」ように見える表現だって、それによって救われる人がいる限りは、それを必要がないと切り捨ててしまうのは暴力的な思考回路なのではないでしょうか、ということです。


だって少なくとも私は、"Speechless"を初めて聴いたとき涙が滲んだから。


"Stay in your place" (ただそこに居ればいい)
"Bette seen and not heard" (美しく、そして静かにさえしていればいい)
But now that the story is ending (でもそんな物語はもうおしまい)

「女の子は静かにしなきゃダメだよ」「女の子は可愛くしてないとダメだよ」
ナオミ・スコットの力強い歌声を聴きながら、私にかけられたこれらの呪いが、静かに解けていくのを感じ、あぁ、この作品に巡り会えてよかったなぁ、と心から思えたから。

こんな風に作品を通して呪いを解いて自分を肯定できる人が増えるならば、それらのアップデートは積極的にされていくべきだと思うし、それこそが人の生み出す作品の持つ本質的な力なのではないでしょうか。
もちろん「誰かを救おう!」なんて意気込んで作られる作品は胡散臭くなってしまうけれど、それでも作品には必ずメッセージが込められているし、作品というのは楽しんでメッセージを受け取るためのメディアであると思うのです。

そしてそれは、例えば『アラジン』のような多くの人に影響を与える作品であればあるほど、持つべきパワーでなような気がするのです。伝統があるからこそ、人気だからこそ、作品そのものが人を動かす力を持っているから。


でも、そんな私にだって「必要なくない?」と感じる表現や設定は存在します。
それは、誰かを貶める表現。差別を減らして誰かを救うのではなくて、差別を助長して誰かを傷つけるような表現。

具体的に言えば、「『君の名は。』で女子キャラをあそこまで性的に描く必要はなかったんじゃない?」と思うし、「『全裸監督』をNetflixで配信する必要はなかったんじゃない?」と思うし、「『凪のお暇』であそこまで女はドロドロ!みたいなイメージを植え付けなくてもいいんじゃない?」と思うし。

でも、それらを話すと「気にしすぎだよ」「でもそんなこと言ったら何も作れなくなるじゃん」みたいな言葉が返ってくることが多いのです。
本当にこれは「気にしすぎ」なのでしょうか?

私は結局私でしかないから、作品に対して抱く感想はあくまでも私という人間の視点から見た価値観に基づくものでしかありません。
それでも私はそういった表現を通して、自分や友人が女性であるから怖いと感じた経験や、怒りや、諦めや、そういった今まで遭遇してきた理不尽を肯定されたような気がしたし、それらが何も解決されないで終わることにまた新たな哀しみを感じ、毎日の辛さがちょっぴり増大してしまいます。

これは私が「女性」という枠組みに関して当事者だからこれらをモヤモヤの例として挙げたけれど、「黒人」も「LGBT」も「障害者」も、マイノリティーと区別をつけられそれを理由に理不尽に声を封じられている人間ならば、このモヤモヤはおそらくそれぞれ感じているものだと思うのです。

誰かを救う表現と、誰も救われない表現。
どちらが本当に「必要」な表現なのか。

人間の側をいつでも生きる「作品」。社会と切っても切り離せない「表現」。
それらを人々の苦しみをちょっぴり減らすために更新するか、人々の苦しみを増やすために後退させるか。


「表現」は作り手だけのものではありません。受け取り手がどう受け取って、どう感じるのか、その過程も「作品」の一部に含まれているもの。

本当に「必要のない」表現なのか、それとも「必要のある」表現なのか。もう一度、みんなで考え直していけたらなぁ、と思う今日この頃です。



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沙波

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