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1年間しか一緒にいられない、からこそ


わたしは今、1年間の交換留学に来ている。だからこちらで出会う人と一緒にいられるのは、1年間の期間限定。

1年間といっても、実質10ヶ月だし、もうそのうちの半分が過ぎ去ろうとしていることを考えると、かなり短い期間である。

思えば、「短い期限のある人間関係」って、わたしは今までの人生においてあまり経験していないような気がする。中高一貫校に進学したから、中学の友人とは6年間も一緒に過ごしてその世界にどっぷり浸っていたし、大学の友人だって少なくとも4年間は一緒に過ごすことが確約されていて、その長い時間を共有することを前提に仲良くなって来た。1、2年生の頃はほぼ毎日同じメンバーで語学の授業があったから、またそのコミュニティにぬくぬくと浸かっていた。

そして今も、スイスという異国の地で、運良くわたしは素敵な友人たちと巡り合うことができた。いくつかのコミュニティに入れてもらって、放課後とか休日に、その人たちと他愛なく過ごす時間を重ねている。



1年間で帰ってしまう身分なのに、こうして仲間に入れてもらえるのは本当に嬉しくて、その人たちと会うといつも「もう帰らなくていいかも」と思ってしまう。しかし現実では時が止まることはないから、「帰りの飛行機のチケット取らなきゃな〜」などと考えながら、ふと寂しさがこぼれ落ちてきてしまう。

なぜここまでセンチメンタルになってしまうかというと、先にも述べたとおり、「離れる前提で人間関係を築いていく」という行為自体が、わたしにとってはほぼ初めてであるからだと思う。

もちろん、誰かと離れたくて人間関係を築いていく人はいないだろう。概念そのものが矛盾してしまう。誰だって、「この人ともっと楽しい時間を過ごしたいなぁ」となんとなく思って、それでその人と関わりあうと決めて、一緒に過ごす時間を重ねていく。人間関係はいわば、「関わりたい」という互いの決意の集大成だ。

わたしだって、「離れる前提で」とか書いているけれど、日本に帰ってからこちらで出会った友人たちと連絡を断つつもりは全く無いし、今後も定期的に会えたら嬉しいと思っている。


けれども、人間関係というのは、意外と脆い。21年という人生はまだまだ短いけれど、そのことをわたしに教えるには充分すぎる時間だった。

人間関係を決定づける上で、環境というのは本当に大きい要因だ。例えば、あんなにどっぷりと浸っていた中高の友人だって、一度大学が離れてしまうと、ほとんど連絡を取らなくなってしまった人も多かった。SNS上の薄っぺらいつながりだけを残して。本当に親しい友人とはこまめに連絡を取り続けているけれど、一緒に過ごせる時間が減るということは、どうにも関係性の密度を薄めてしまう、気がする。

しかも意外なことに、「この人とは大学に入っても連絡を取り続けるのだろうな」と高校時代に思っていた友人に限って離れてしまったり、在学中はほぼ接点のなかった友人と、ひょんなことから意気投合して頻繁に会う仲になったりする。

「人生そんなものだ、一期一会だ、割り切りなさい」と言われたら、もうその通りすぎてぐうの音も出ないのだけれど、それでも気持ちというのはそううまく割り切れるものではなくて、もともと後ろ向きな性格なのも相まって、わたしはいつも寂しさに押しつぶされそうになってしまう。

これは宇多田ヒカルの表現の引用なのだけれど、わたしは、人間関係というのは、見えない波が押したり引いたりして変化していくものだと思っている。つまり、どんなに離れたくなくても人は離れてしまうし、それと同時に離れたくても離れられない相手もいるように、人間関係だけは、私たちが支配できるものではないのだ。書いてて悲しくなって来てしまった。けどわたしは経験からそれを学んだのだ。


もともとわたしは、人間関係というものにすごく臆病だ。自分に自信がないから、相手の一挙一動ですぐに「嫌われたんじゃないか」と思ってしまうし、傷つくのが本当に怖いから、とりあえず持ち合わせている社交性で、人と浅いつながりを築いて満足してしまうことも少なくない。そのいつもの自分だったら、「どうせ一年しかいないし適当なつながりで済ましとこ」と思ってしまいそうなのに、こちらの友達はわたしの心をノックするのがうまいのか、はたまたその人たちがどうにも魅力的なのか、「適当なつながりで済ませたくない」と思う自分が、いつからか現れてしまっていた。

こちらで得た友人たちは、当たり前にみんな自分とは異なるバックグラウンドを持っているし、多くの言語に堪能であるから、ものの考え方や根本的な価値観・思想が結構異なっていたりする。だからその友人たちと関わっていると、些細な発言や行動からその違いが伝わって来て、いつもいつも心に新鮮な風が吹くような心地になる。救われたような気持ちになることさえある。前の記事でも述べたけれど、わたしは誰かの求める価値観に縛られて生きていたんだなぁ、もっと好きなように生きていいんだなぁ、と気づかされる。

わたしの大学には留学の協定校が多いから、選ぼうと思えば他の国、他の街、他の大学を選ぶことだって出来た。それなのにわたしは自分の意思でこの街にやって来た。そしてそんな素敵な友人たちと巡り会えたということは、深夜テンションで大げさに、典型的な言葉を使って表すと運命、と言えるかもしれない。

しかしわたしは運命という言葉が好きではない。運命なんてものは、偶然の積み重ねにすぎない。そしてその偶然は、わたしの決断の積み重ねだ。たまたま今の大学に行くと決めて、たまたまこの街を選んだから、わたしはいまここにいる。

つまりわたしはきっと自分の意思で、そんな素敵な人たちにはるばる会いに来たのだ。数千マイルの距離を超えて。

日本に帰った後にその人たちとの関係性がどうなるかはわからない。それこそ見えない波に押されて、関係性が希薄になってしまうかもしれない。それでもいまのわたしは、そんな素敵な友人たちともっとたくさんの時間を共有したいと、心から素直に思う。とりあえずいまはその気持ちだけを信じて、残りの五ヶ月でもっともっと素敵な思い出を作りたい。

そして帰りの空港で、そんな素敵な時間が過ぎ去ってしまったことに対して、わたしはきっと少し泣いてしまうのだろうと思う。



ところで、ここまでこんなに熱く現地のお友達への愛を語ってしまいましたが、そんな素敵な友人たち、皆日本語に堪能なんですね。もしこれを読んだら、もうばっちり内容を理解できちゃうんですね。あー恥ずかしい。素直になれないタチで、普段こんなこと思っているなんて1ミリも言動に出していないので、ますます恥ずかしい。もしかしたらびっくりされちゃうかもしれません。重いとかキモいとか大げさすぎとか引かれないといいなぁと思います。笑


留学、来てよかったな。そう思えたことが、現時点での留学の一番大きな成果かもしれません。


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