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「女性らしさ」と、学ぶ価値


なぜ男子学生は東大生であることに誇りが持てるのに、女子学生は答えに躊躇するのでしょうか。なぜなら、男性の価値と成績のよさは一致しているのに、女性の価値と成績のよさとのあいだには、ねじれがあるからです。女子は子どものときから「かわいい」ことを期待されます。ところで「かわいい」とはどんな価値でしょうか?愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手を絶対におびやかさないという保証が含まれています。だから女子は、自分が成績がいいことや、東大生であることを隠そうとするのです。

これは、ここ数日インターネットで議論を巻き起こしている、東大入学式の上野千鶴子氏の祝辞の一部だ。この数行を目にしたとき、自分の奥底で眠っていたかつての怒りや苦しみの炎の灰が、静かに再び燃え盛っていくのを感じた。
今まで胸の中に蓄積してきた想いを言葉にするので、少々長くなるけれど最後まで読んでいただけると嬉しく思う。


わたしは中高女子校の出身だ。女子校というと、「いじめが激しそう」とか「お嬢様がたくさんいそう」とか「良妻賢母が育ちそう」というイメージを持たれがちだけれど、少なくともわたしの出身校はそうではなくて、むしろ一人一人が性の役割から離れ、本当の自分として生きることを教育方針に掲げた学校だった。だから体育祭や文化祭の前日には女子全員で机や椅子を先生方と一緒に運んだし、誰もが会話の中で積極的に笑いを取りに行ったし、様々な女子が様々な場面でリーダーシップを発揮した。

そんな環境で「女性」というより「人間」として育ってきたわたしは、大学で男女が共存する世界に初めて飛び込んで、その「男性」「女性」にそれぞれ求められる役割の多さに驚いた。

そしてその求められる役割に沿って生きられている方が「良い」ということ、またその「女性らしさ」は容姿より、仕草、発言、思想等、それらに基づいてジャッジされるらしいことも知った。

一年生の当時は髪をかなり長く伸ばして茶色に染めてパーマをかけていたし、可愛い服を着るのもメイクを研究するのも大好きだし、特別美人なわけではないけれど、そこそこに「女子らしい」容姿をしていた。しかしわたしの中に生粋の女子校気質、言い換えるならば人間気質は根付いてしまっていて、友人といるときに面白いことを積極的に発言して場を盛り上げたし、ゴリゴリに勉強したし、自分の意見をしっかりと述べた。

そしてそんなわたしを周囲は「黙ってれば良いのにね〜笑」と評した。それはもちろん容姿に対する褒め言葉のつもりだっただろうし、気軽な冗談のつもりだったのだろうけど、わたしはその台詞を吐かれるたびに「女子失格」という刻印を深く押されたような心地になって、自尊心を少しずつすり減らしていった。

どうして容姿を引き合いに出されて中身を否定されなければいけないのだろう。どうして友達なのにわたしの自分らしさをそのまま肯定してくれないのだろう。
仲のいい男友達から「お前男だもんな」と言われたことすらある。とてもショックだった。

だから「女子らしく」振る舞おうと努力した。それでも20年間築き上げてきたパーソナリティを変えるのは容易なことではなくて、現実と理想の狭間でわたしは幾度も苦しんで、その妥協点としてわたしはバッサリと髪を切った。
中身が「女子らしく」ないのに、外見だけ女子らしく装っているわたしが悪いのだ。外見も女子らしくなくなれば、わたしに「女子らしさ」を期待する人は減って、結果的に中身を否定されることも減るだろう、と。実際、体感として減ったような気がしている。


話を元に戻そう。

わたしがなぜ上野さんの式辞のこの部分に目を留めたかというと、その努力の過程で無意識に身につけた習性の一つに、「頭のよくないふりをする」というものがあったからだ。(一応断っておくと、東大レベルに勉強ができるわけではないです)

というのも、ある男の子と成績の話になったとき、口を滑らせて自分の方が成績がいいと言ってしまい、相手の反応が芳しくないことがあったから。そこで本能的に学んだわたしは、それ以降男の子に成績の話をされたとき、自分も同じくらい、あるいは自分の方がいい成績だったとしても、自分の成績については言及せずに「すごいねぇ」と言った。

そしてわたしは自分にその習性があることを、こちらのスイスで指摘されて初めて知った。「なぜあなたは馬鹿な女のふりをするの?」と、聞かれたのだ。

なぜだろう。なぜ。なぜ。

そんなの、「頭のよくない女の方が愛される」からに決まってる。だってやっぱりいまの日本じゃ女の子は素敵な男性に愛されていずれ結婚して幸せに生きることが一番大切で、そのルートから外れるのは「おかしいこと」と見なされて、そこからはみ出しても堂々としていられる強さを持ち合わせていれば問題ないのだろうけれど、わたしは人の目を結構気にするし、精神的にもなかなかに脆弱だ。

それでもスイスに留学にきてからは、驚くほどの知性と教養を持ち併せた女の子に数多く出会った。実際スイスでは、大半の女の子が修士課程に進むのだ。
わたしの詳しくない学問について目を輝かせて熱く語る彼女たちは総じてとてもチャーミングで、知性と教養は人間の魅力を増幅させるもので、隠す必要なんて決してないものなのだと感覚として理解した。

わたしはかわいくはありたいけれど、「愛されて、選ばれて、守られる」ためにある既存の「かわいい」なんて破壊して、新たな「かわいい」を築きたい。女子がなんだ。愛されがなんだ。
わたしは周りの大切な人たちを、愛したいし、選びたいし、守りたい。自分の力で。知性と教養という武器をこの手に持って。

そしてその、「愛し、選び、守る」というプロセスを踏むために必要になってくるのが、勉強なのだと思う。


ご入学おめでとうございます。あなたたちは激烈な競争を勝ち抜いてこの場に来ることができました。その選抜試験が公正なものであることをあなたたちは疑っておられないと思います。もし不公正であれば、怒りが湧くでしょう。が、しかし、昨年、東京医科大不正入試問題が発覚し、女子学生と浪人生に差別があることが判明しました。


この式辞の冒頭部分からも、わたしがかつて苦しんでいた「女子らしさ」の話からもわかるように、私たちの生きる社会において、「当たり前」はかなりの割合で歪みを内包しているし、その歪みはいとも簡単に人々を傷つける。

それでもその「当たり前」を疑わずに享受し続ける限り、私たちはその歪みに気がつくことができない。差別は、する側がその存在にすら気がつかないからこそ差別なのだ。


その「当たり前」を見直して、社会を自分の目で見つめなおすこと。
何が善で何が悪なのか、そしてそれらはどうして善でどうして悪なのか、きちんと自分の頭で考えられるようになること。
そしてその「当たり前」の歪みが誰か、とりわけ自分の大切な人たちを傷つける方向に流れていってしまいそうなときに、自分の意思で反旗を翻し、その人たちを守ること。
歪みに傷つけられた人々の痛みを想像し、寄り添うこと。

それが、学びが私たちにもたらしてくれる一番大きな収穫なのではないかと思う。

勝手に大ファンのぽんずさんの言葉を拝借するならば、私たちは「やさしさを身につけるため」に学ぶのだろう。


また、その「当たり前」を見直すツールとしての学問に貴賎などなくて、きっとどの学問もそれぞれの形で「当たり前」を見直すきっかけを与えてくれて、それぞれの形で想像力や善悪の基準を教えてくれるものなのだと思う。

塩、砂糖、醤油、コンソメ…様々な調味料が加えられて初めて料理が美味しくなるように、文系も理系も芸術系も、様々な学問が存在しているからこそ、社会はバランスを保ってその形を維持できているのではないだろうか。
現代の日本では、実学以外は役に立たないと軽視されてしまいがちだけれど、塩だけで味付けされた料理なんてあっさりしすぎていてつまらないじゃないか(文系単科大だからってうちの大学の予算減らさないでください、お願いします!)。



先日、スイスで働いている日本人の方に会う機会があって、その方は会話の中でポロリと「まぁ、大学でやった勉強なんて何にも残らないけどね」とこぼした。わたしは「こんな大人にはなりたくないな」と思ったのだけれど、これはきっと就職重視の日本社会に生きる多くの人々の価値観を代弁した台詞なのだろうな、とも瞬時に悟った。

だからわたしはこのnoteを通して、そんな社会に反旗を翻す。学びは、絶対に貶められてはならないと。だって、学びは私たちに、生きる上で必要な「やさしさ」をもたらしてくれるものであるのだから。

それでも今わたしがこうやって学びの価値に気がつけているのは、わたしが留学をしているからで、その留学をできたのは協定校の多い大学に入れたからで、その大学に入れたのは有名大学に進学するのが当たり前な高校に通わせてもらっていたからだ。

がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。

中学受験も、大学受験も、留学も、苦しくて投げ出してしまいたいと何度も思った。それでもわたしが頑張ることをやめられなかったのは、わたしが今それらの努力で得たものを信じられているのは、きちんとわたしの努力を評価してくれる人たちがたくさんいたから。

そして何を生業として生きていけばそんな社会の役に立てるのだろう、と最近ぼんやりと考え続けていて、未だに答えははっきりとは出ていないけれど、以下の言葉はわたしの中で一つの指標となり得るのではないかと思う。

世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。


がんばっても報われない人も、がんばろうにもがんばれない人も、がんばりすぎて心と体を壊した人も、がんばる意欲をくじかれた人も、いわばその「当たり前」の歪みの犠牲者で、種類は違えど歪みに苦しんだ経験を持つわたしだからこそできる寄り添いを、助けを、わたしは実行したい。だからこそいま、手始めにこのnoteを書いている。

(余談だけれど、「がんばり」をひらがなで表現する東大側の言語感覚がとても好きだ。漢字で「頑張る」よりもひらがなで「がんばる」の方が、努力のひたむきさとそこへの寄り添いが滲んでいる気がする。)


今回のnoteはわたしのコンプレックスの吹き溜まりのようなもので、いわば自分の塞がった傷をあえてほじくり返すのと同義で、書いていてときどき涙が出そうになった。それでも、その痛みをわたしにできる限りの形で発信していくこと、それがいまのわたしにできる唯一のことだ。

この後に及んで「このnoteを女の子の友達には読んでほしいけど男の子の友達には読んでほしくないな」なんて愚かなことを考える自分もいる。頭ではわかっていても、まだ気持ちが追いついていないらしい。
正直なところ、わたしは未だに自分の女性性を持て余してしまっている。それでもいつかはそんな自分ごとまるっと愛せるようになりたい。そして自分の弱さを認めた上でもっともっと学んで、自分も他人も愛し、守りたい。


もうかれこれ5000字も打ち続けている。長くてまとまりにかけるわたしの文章をここまで読んでくれた方々に、本当に心からの感謝を示したい。
noteの読者の皆さんもいわば「環境」の一つで、書いたことを真摯に受け止めて考えて反応をくれる皆さんがいるからこそ、わたしはこうやって発信し続けていられるのだと思う。

この入学式祝辞は賛否両論を巻き起こしていて、確かに「祝い」の言葉として適切とは言い難いかもしれないけれど、それでもやはり「東大の入学式」という影響力のある場で、社会の理不尽な現実をきちんと言葉として表明してくれたというだけで、この祝辞は本当に賞賛に値すると個人的には思っている。

もしこのnoteを読んで何かを考えていただけたのなら、わたしは本当に嬉しいです。コメントでも、リア友の皆さんはLINEでも、ご意見・ご感想お待ちしています。


↓祝辞全文
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html


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