おそらく最初で最後のエール〜乙武がんばれ〜

はじめに

 もう忘れている人もいると思うが、ぼくは2020年東京都知事選挙に出馬して、最終的に小池百合子氏に敗北した。(ものは言いよう)

 無所属新人で、政党に所属せず、支援団体も無ければ市民活動も一切していなかったので、供託金300万円は自身の貯金から、立候補手続きから選挙終了後の決算までの事務も自分でやり、選挙カーも無ければポスターも200枚しか刷らず、全14,000箇所には遥かに及ばない状況。電池式のメガホンと公職選挙法に定められた「のぼり」をキャリーに詰め、駅から駅へと演説地を転々とする。そういう戦いをした。
 結果。1人で20,738票。選挙前からの基礎票が1なので、2万倍の成果を出すことができたと言える。(ものは言いよう2回目)

 今回、掲載するのは、2年前のその選挙中に書き溜めていた「手記」の冒頭に書いた文章の抜粋である。

 選挙後「こんなの書いてるんだけど、載せていいです?」と乙武氏にメッセージしたら「もっと続きが読みたい!」と言ってもらえたものだ。

 あいにく、その後ぼくは縁あって行政に関わることになり、地方自治体の顧問になったので、いわゆる“政治”に意欲的であると受け取られかねない文章は掲載すべきではないな、という判断でお蔵入りにした。

 実際、都知事選以来、政治活動はしていないし、地方議会議員や国政に出る予定はない。

 そして2022年5月18日乙武洋匡氏が出馬表明をした。

 丁寧で、わきまえていて、寄り添いを期待させる実直な言葉。
 しがらみに絡め取られず、ハシゴを外されることのない「無所属」での出馬。

 あらためて、あのとき読んでもらった文章を掲載するとともに、最後にちょっとだけ、エールを贈ろうと思う。選挙期間に突入してしまうと、それはそれで気を遣うものだしね。


ここから次の区切り線までは、2020年秋頃に執筆され、下書き保存のまま今日まで眠っていた文章です。読みやすさを考えて小見出しをつけ、改行を増やした以外は、当時のパッションのまま書き連ねた文章であることをご了承ください。

頂上決戦したかった相手

都立戸山高校での生活

 ぼくの高校時代の後輩。一つ下の学年に、乙武洋匡という著名人がいる。ご存じ『五体不満足』で鮮烈なデビューをした彼である。『五体不満足』には乙武氏の半生が書かれていて、高校時代のシーンは、今読んでも30年前の空気感がありありと蘇ってくるほどだ。

 あの本には書かれていないことがいくらもあって、高校時代の描写にそんなにページを割くわけにはいかないだろうから当然なのだが、彼がアメフト部とともに所属していた『生徒会執行部』については、そのうちの一つといえる。

 当時の東京都立戸山高等学校は、まだ昭和初期の「ナンバースクール」の面影を残していて、「何浪してでも東大京大」「早慶上智より下は大学じゃない」と誰もが嘯くくらいの受験プレッシャーのある環境だった。

 それでいて、いわゆる体育祭や文化祭の催しも準備とともに大変に時間を割く学校で、入学して一ヶ月後に行われる体育祭では競技をする体育会系の部活だけでなく、文化系であっても応援団要員としてかり出される。授業が終わったら近くの戸山公園に集合し、終電まで応援歌やダンスの練習。

 当時はMCハマーやボビーブラウンが大流行していたのだが、ぼくにそんなダンスのセンスは無く、先輩から「もっとF×××するように腰を振れ!」と怒鳴られていた。「先輩! F×××したことあるんですか!?」と尋ねたら「無い!」と威勢良く答えられた。おい。

 秋の文化祭は「戸山祭」と呼ばれ、一年生は「展示」、二年生は「演劇」、三年生は「映画」というジャンルでそれぞれ出展をするのが習わしだった。それとともに、文化系や実技披露をする一部の体育会系の部活は日ごろの成果を発表する。これを仕切っていたのが「戸山祭実行委員会」だ。そのほか、隣の都立新宿高校との対抗戦や、年に一回「学生公論」の刊行などもあった。

 こういった節目となる大きなイベントがありつつ、授業以外の活動や、部活動が円滑に行われるように予算編成をしたり執行したりというのが、当時の東京都立戸山高等学校における生徒会活動だった。

特異な体験だった生徒会活動

 生徒会は三権分立を模していて、内閣にあたる「生徒会執行部」、国会にあたる「評議会」そして裁判所にあたる「生徒規範運営委員会」を軸にしていた。これを中心とした生徒会運用は「戸山自治」と呼ばれ、何世代にもわたって尊ばれていた。

 ぼくは戸山高校に入学してすぐ生徒会室の戸を叩き、諸先輩の薫陶を受けた。生徒会執行部にはいろいろな部署があったが「生徒会に関わると忙しくて部活や受験勉強ができなくなる」などの理由で、いずれも後継者問題と呼べるほどなり手が少なかった。新宿高校との対抗戦準備のために手薄となった先輩の部署を助けるということで、ぼくは「外務局」の仕事をすることになった。

 外務局という名前からもわかるようにこれは「外務省」をもじっている。校外との窓口となり、渉外などをする。ところが、日常業務はほとんど無い。たまに生徒会宛に届くダイレクトメールを黒板に貼り付けて「興味あるかたはどうぞ」とチョークで書き添えるくらいだ。たぶんそういう中でどういう働きをするのか試されていたのだと思う。さらに、外務局の仕事の仕方を熟知している人はいなかった。これには理由があって、ちょっとした「過渡期」だったのだ。

 ぼくが入学する前年くらいまでは、頻繁に「生徒会OB」が生徒会室を訪れては現役生に説教をし、あれやこれや指示しては帰って行ったのだという。おおかた、浪人生の暇つぶしということだったのだろう。それに東大や京大に進学する「卵」ということもあって、青田買いとでもいうのだろうか、政治団体が乗り込んできてスカウトするみたいなこともその昔にはあったようで、それを三年生やその一つ上の世代が時間をかけてお引き取り願うようにしていった時期だった、というわけだ。その活動の副産物として、OBによって抱え込まれていた業務は新入生へと伝える機会も術も無くなったのである。

 民間企業でも、他人に奪われないように、優位性が消えないようにと、自分にしかできない仕事を勝手に作って抱えて手放さなかった人が、マニュアルも作らずに退職などで消えてしまうと、後任が右往左往することになる。それと同じだ。

 だがそれはぼくにとっては悪いことではなかった。残存している資料から過去の外務局の仕事を調べ、当時の戸山高校が含まれる「第二学区」に、かつて「二高懇(にこうこん)」と呼ばれる生徒会執行部同士の会合があったことを知る。もう二十年以上も前の学生運動の余波で「高校生の組織同士が集うのはよくない」というところから、開催されなくなって久しくなってしまった、ということのようだった。

 他校の生徒会運営陣も似たような課題を抱えているのであれば、ともに取り組むこともできるし、何らかの問題を知恵で解決した高校がすでにあれば、教えを請うこともできる。この二高懇の再開はきっと自分の高校に役立つに違いない。ということで、当時の執行委員長(戸山高校では生徒会長のことをこう呼んでいた)に意見をもらい、許可を得て取り組むことにした。

 結果として「二高懇」は賛同した高校が持ち回りで会場を提供する形で開催されることになり、そのほかはとにかく先輩のやることを手伝いまくって、どういうわけか一年次の後期には「執行委員長」の座についていた。その頃のぼくは、今と違って(?)空気を読まずエキセントリックだったので、とにかく「今の戸山高生はダメだ」「もっと自治に目を向けろ」「ぼくは誰の挑戦でも受ける!」と豪語し、戸山高校新聞はそれを大きく取り上げつつも、冷静にビジョンにおける具体性の有無を指摘し、書き立てたりもした。

『五体不満足』に書かれていない、彼との出会い

 さて、皆さんお待ちかねの乙武とぼくとの出会いである。いきなり苗字で呼び捨てにして申し訳ない。でも思い出すと当時は「乙武」と皆が呼んでいた。ちょっとの回想をしているあいだは、敬称を略する無礼を許してほしい。

 学年が二年となり、新入生を迎える季節。春休みに校舎の入り口に緩い傾斜のスロープが設置された。

 いまや「バリアフリー」という言葉は一般的だし、街や建物のつくりにおいてその観点を漏らすことなどあり得ないのが普通になってきたが、30年前のことだ。社会的にはそこそこ特別なことだった。

 高校のあった高田馬場には点字図書館や障害者センターがあり、路地にも点字ブロックが埋められていて、四つ角には必ず音の出る装置があった。そんな環境だったから、スロープができることは自然なことのように思えた。

 桜のアーチがそのスロープに花びらをおとす頃、乙武は電動車椅子に乗ってやってきた。

 新入生オリエンテーション。ぼくは体育館ステージの床下、普段なら折りたたみ椅子が仕舞ってある空間で、息を潜めていた。いちばん真面目にみえる会計局長に司会を任せてしまい、彼によって生徒会の仕組みや学校生活の送り方などの説明が淡々と行われていった。

 新入生はただただ真剣に聞いていた。何も知らない人たちが、ごく当然のように先輩の話に聞き入り、明日からその通りに過ごし始める。それは怖いことだ。その怖いことを、打破してもいいのだと伝えたかった。

「では、次に生徒会執行部の説明をします」と司会が言った瞬間。ぼくは舞台下の扉を開け、ステージへと跳び乗った。

 新入生の視点からは、こう見えたはずだ。

 あくびが出そうなかったるい説明が続いたその時に、突然舞台下から黒装束の忍者が現れて司会者を刀で斬りつけた――。

 マイクを奪ったぼくはこうアジテーションした。「執行委員長の澤だ。このオリエンテーションは俺が乗っ取った!」と。予定調和なので乗っ取ったわけでもなんでもないが、それからぼくは夢中で、これまでの数年で形骸化した生徒会活動を再生しなければならないこと、それが明るい高校生活へ繋がること、とにかく無関心でダラダラと高校の三年間を過ごしてはいけないんだ、ということを説いた。

 いま思えば、色々な人や状況に配慮して空気を読んでばかりで歳を重ねてしまった30年後の自分、すなわちこれを書いているぼくなんかより、ずいぶん気持ちよい人物に見える。

 エキセントリックなことは、言うに限る。

 斬られた司会は一度舞台袖に避け、ご丁寧に肩口から腕にかけて包帯を巻いて再登場した。

 そして一連のオリエンテーションが済んですぐ、放課後の生徒会室に電動車椅子の彼――乙武――が現れた。

「ぼくを生徒会執行部に入れてください!」

 忍者装束で語る執行委員長を見て、それでも入りたいというなら、何か感じたってことなんだろう。強い眼差しからは意志の強さだけでなく、隙を見せればすぐこちらを試してきそうな、そんな賢さを秘めた怖さも感じられた。すぐ隣にいた戸山祭実行委員長に「来年に向けて鍛える?」と訊いた。「新宿戦が近いからそこから入ってもらいましょう」と即決された。

 そしてすぐ乙武は頭角を現した。「必要なリストの制作を頼んだら、締め切りよりも前倒しでワープロできれいなものを仕上げてきた。その瞬間、あ、分け隔てせずに普通に仕事を頼んでいいんだな、と理解した」これは当時の戸山祭実行委員長の述懐である。だがその後、乙武は先述したようなとにかく忙しい高校生活の中で、アメリカンフットボール部のコーチとしての活動に集中するという決断に至る。

 そこから先は『五体不満足』に書かれているとおりだ。

『五体不満足』が出版された頃、大学生になっていたぼくは青学大の購買でその著書を手に入れた。たまたまバイト先の人と話していたら『今度乙武さんが徹子の部屋に出るみたいなんで観覧に行ったら?』と公開収録観覧への応募を勧めてくれた。

 まだ六本木ヒルズが建つ前のテレビ朝日の六本木スタジオで、ぼくは乙武の勇姿を見た。『徹子の部屋』という伝統的な番組に物怖じすることをせず、時折ユーモアを交えて語る姿に、なぜか涙が出てきた。「自分は何をしてるんだろう、乙武がこんなに頑張っているのに、ぼくには何ができるというのだろう」と。

 だがミーハーでもあるので、収録後に楽屋へいき、本にフェルトペンで「oto」とサインをしてもらった。何を話したかは覚えていない。学生時代のぼくはバンド活動をやっていたのでたぶんそんなことだろうと思う。

   *

 前フリにしては長かったが、なぜ乙武氏の話をぼくがここに書いているのか。別に彼との出会いが今回のぼくの都知事選立候補に繋がったわけでもなければ、選挙に出る行為のルーツが少々特殊な戸山高校生徒会執行部での経験にあったとも思えない。いや、思われてしまうか。こうまで書いたのだから……。

 大人になってずいぶんと丸くなったと自覚している(?)というのもあるが、高校時代の考えと現在とでは、自分の中ではまるで連続性が無い。大学を出てから何度か地面を這いつくばっているので、その度に、より一人でいられるのに近いことを選択するようになり、そうこうしているうちに「内心の何らかの発露をもって他人をどうにかしよう」という手段をとることへの意識が希薄になっただけかもしれない。

 けれど、それがいつのまにか前章で書いた「直近25年の都知事って小説家かテレビタレントなんで、それで小説家に……」に続ける冗談として「都知事選で乙武と頂上決戦がしたいんだよね」と言うようになっていた。ぼくの知る限りの同年代の人物で「そこに近い」位置にいるのは、彼しかいなかったからだ。

 今回の都知事選では当然そんな決戦はのぞめなかったわけだが、『選挙ドットコム』へのビデオチャット出演で、四半世紀振りに顔を合わせることになった。

(抜粋ここまで)


おわりに〜エールにかえて〜

 乙武氏はネットの選挙番組MCを通じてつぶさに政治と選挙を見つめてきているし、教育と福祉分野に強く、知名度もある。おそらく氏のもとには優秀な選挙スタッフ、サポーターが揃うだろうし、選挙を戦い抜くことそのものには、何の心配もないように見える。

 選挙というのは、立候補者同士が戦っているようで、投票日当日は私達の戦いである。とくに、その検討において政治家の「知力」がほとんど話題にならないのは残念なことで、そういう政治でかまわないという民意が如実に反映された結果が、現代なのだとおもう。

 人気ドラマ『鎌倉殿の13人』を観るといい、毎回「領土とメンツと調整」の話しかしていない。フィクションと現実は違うと信じたいが、その舞台である鎌倉時代から1,000年近く経っても、やはり領土とメンツと調整の話をしてやまないのが政治だ。

 強烈な意志と理想をもって立ったものが、いずれ知力を望まない民意に絡め取られ、蒙昧な者たちによって昇ってきたハシゴを外されるというであれば、それは不憫と言わざるを得ない。

 乙武氏におかれましては、選挙戦での健闘はもとより、その後どんな結果を迎えても、決して光を失わずに、立ち続けていただきたいと、それを願います。

先輩面、先輩風の、沢しおんより。

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