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チェリー


自宅から駅までの間に、細い抜け道がある。駅に向かって左L字を描くその道を通ると、インターネットのルート検索で出てくる経路より10秒は確実に早い。ぼくの前を歩いていた人が、その抜け道を抜けるとぼくよりも後ろになる。

朝の10秒は侮れない。それでホーム後方寄りの階段から7輌編成の先頭車輌まで余裕でたどり着くかどうかに大きな差がでるのだから。

その抜け道は、雨の日に傘を差していると通るのをためらうような、それくらいの幅しかない。

一度ぼくの10メートル先を歩いていた女性が、その抜け道に入り、ぼくはどうしようかと一瞬悩んだけれど、いつものようにその道に入ると、女性は明らかに歩く速度を上げてあっという間に奥のL字を曲がって行った。

ぼくを怪しんだのかどうかは定かではないけれど、女性の後ろ、見通しのきかない細い道、控えるべきだったと反省している。

道は、片方が民家のバックヤードに面していて、少し前には桜や、名前の知らない花が咲いていた。桜は濃いピンクの、明らかにソメイヨシノではないのがわかる。簡単な柵から枝が道にはみ出ているのを幸いに、何度か写真を撮った。

桜は散り、葉が青々としてくるのと歩調を合わせるように青い実が見えるようになり、この2、3日で小さな丸い実の所々に赤みが差してきた。

今朝、家を出るのが遅くなって駅まで早足で急いでいた時に、その色付いてきたサクランボが目に留まり、一旦通り過ぎかけたけれど、腕時計を確認して、数歩戻って写真を撮った。

写真を撮る余裕は無いはずだったけれど、なんとか先頭車輌には間に合った。

岡山駅近くのクリニックでのプログラムと、駅前で少し用事を済ませて、午後に帰ってきた。朝と同じ道を通った。朝見た時よりも赤い実が増えたように見える。気温の上がった、よく晴れた日だった。

朝よりはじっくりと設定を変えながら写真を撮っていると、ぼくの後ろから男の人の声がした。やば、という言葉が咄嗟に頭に浮かんだ。道にはみ出ている部分とはいえ他人の家の木である。多少後ろめたさを心の奥に忍ばせながらの行動だった。

振り返ると、ぼくより少し若い雰囲気の男性がバックヤードから道に出て来てこちらを見ていた。よかったらサクランボ食べてってよ、と意外な言葉をかけられた。勝手に生えた木だし、無農薬だよ。

そう言ってその人は自分でひとつふたつ枝からちぎって口に運んでいた。

ぼくはそれよりも、勝手に写真を撮ってごめんなさい、とまず詫びた。

ええよええよ、そんなん、こんなんでよかったらなんぼでも撮ってよ、あともうほんとに勝手に食べていいよ。

じゃあ少し撮ってからいただきます。

ぼくはそう言ってもう何度かシャッターを切った。

そしてせっかくなのでなるべく赤い実を採って食べてみた。

あれ、おいしい。

正直、味はそんなに期待していなかった。それなのに思ったよりも甘味と、ほのかな自然な酸味があって、今まで食べたサクランボの中でも一番うまいかもしれない。

そう思いながらさらに採って食べる。味が安定している。糖度はそんなに高くはなさそうだけど、水っぽいこともなく、いくつでも食べれそうだ。

さっきの男性はバックヤードに戻ったみたいなので、柵の途切れたところに行ってみると、四駆の車の陰から出てきた。

美味しいです、と素直な感想を伝えると、ああそう?と笑いながら言ってくれた。また勝手に食べてよ。

ありがとうございます。

お礼を言って、もう一度木まで戻り3ペアほど手にとって家に持ち帰ることにした。手のひらにそっと握った。

自宅までもどる直前のお地蔵さんにただいまを言うと、微笑んでいるような気がした。手にもっていたうちの1ペアをお供えした。

見ると、お供えの花が萎れていたので生け変えることにして一旦家に入り、庭の花を何本か、シャガや紫蘭などを切って、花入れの水を変えてそこに差した。

残ったサクランボは家でおいしくいただいた。

勝手に、と言ってくれているから明日の朝ももらってみようかな。ちょっと楽しみだな。


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