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9畳のテラリウム (試し読みできます)

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文学フリマ京都で販売する「9畳のテラリウム」の試し読みができます。購入していただけたら跳びあがって喜びます。
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記事一覧

9畳のテラリウム

 なんとかすべり止めの私立に合格した、と思ったら母親にせきたてられてアパートを決め、引っ越しの準備をし、すぐに使いそうな家電と寝具だけ購入して、と、そんなことをしているうちに桜が咲いた。

 ユニットバスでもいいから広さだけは欲しい、と粘って探して借りることができた二階の角部屋は、最寄り駅から歩いて二十分かかった。コンビニは駅の隣に一件しかなく、あこがれの「ちょっとコンビニに行ってくる」をやるため

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春の歌

 ぶくぶくぶく、と空気を逃がしてやる。

 代わりに苦しみでいっぱいになっていく。

 ぬるめのお湯のやわらかな水圧は、とはいえ確実に人を殺す力を持っている。

もう無理、と、たてがみを振り上げるライオンのように水面から顔を上げ、息を、吸って、吐く、を、繰り返す。

 張り付いた前髪をかきあげ、何度目かの呼吸を、余(よ)韻(いん)とともに吐ききったとき、園子は生まれ変わることに成功していた。

 

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極細ポッキー

極細ポッキー

 よっちんのくれたポッキーが口の中で小気味よく折れた瞬間、あぁわたしはよっちんが好きなんだなあ、と理解した。

 よっちんの表情はわりとくるくるかわって、割とすぐ、喜怒哀楽の哀だったり、怒だったりの表情になる。でもそれは、よっちん専用の表情だから私みたいに四六時中よっちんのこと観察してないとわからないのかもしれない。よっちんの表情の変化は、あくまでよっちんの表情レパートリーの中でのことだから、周り

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てのひらからマグマ

 結婚するから、別れよう

 と、言われた気がした。佐知子はぼんやりした頭でその意味をはかりかねていた。

 今年は白菜がたくさんできたから、健人の好きなキムチを手づくりしよう、と、朝から大量の白菜を塩漬けして、仕込みのために昼食も食べておらず、手伝うよ、と言っていた健人はなかなか来なくて、だけど、ヤンニョムという、キムチの素を作っていた手でスマホはいじれなくて、まーそのうち、と思っていたら健人が

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名前が、キラリ

名前が、キラリ

 妃星、それが彼女の連れ子の名前で、きらら、と読む。

 いや読めない。読めないが、そう読む。

 名付けた彼女の元夫は、若いのに湘南爆走族に心底憧れていたという。いまどき湘南爆走族に憧れるあたり、なんと純朴な…と好感がもてるが、名付けのセンスはやはり現代人。

彼女も十七歳という若さから、ノリノリで、妃星という名前に賛成した。(そのことについて、酔っぱらったときに「若かったの…」と漏らしたことが

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駅員・田浦五郎・51歳男性

 その駅の改札を出たところにある待合室は田舎のわりに広く、自動販売機が三台並んでいた。日暮れが早くなると、自宅から車で迎えに来る家族を待つ間、自動販売機で買った飲み物を片手に、高校生たちが騒々しく談笑する姿がその駅の風物詩のようになっていた。年々、その高校生たちの人数が減っていくにつれ、やかましかったおしゃべりが緩やかに静まっていくのを、駅員・田浦五郎は喜ばしく感じていた。

 なにしろヤツら、と

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ナミちゃんのほっぺた

 クッパっておいしいのー?

 韓国料理屋でそれを、はばかることなく言えるナミちゃんはとても正直だ。

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紙軸綿棒

紙軸綿棒

 綿棒を買うのをわすれた。

 綿棒がないと、風呂上がりに絶望が訪れる。この湿った耳の穴の水分を、どうしてくれよう、どうしてくれよう。綿棒はいつだってストックしていたのに。ストックがなくなったから買ってきてって、くにおに頼んだらよりによって軸がプラスチックの、クニャクニャまがるやつを買ってきやがった。コレジャナイ、貴方ハ綿棒ヲ理解シテナイ、って言うと、くにおはキレてプラ軸の綿棒をベランダからばらま

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布団紀行

 布団から出たくない。

 菜々子は冬の休日の朝、薄いカーテンから漏れてくる光を感じながら、涙を流した。

 出たくない出たくない全然出たくない。洗濯だってしなくちゃいけないし、掃除だって絶対したほうが気持ちいい。お風呂だって入ったらスッキリする。分かってる分かってる、分かってるけど、出たくない。だって布団の中ってこんなに幸せ。手放したくない。菜々子は泣いた。おおいに泣いた。その涙はやがて敷布団全

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前頭十二枚目

―さて、魚介相撲北海道場所、解説は鯛乃海さん、実況は私、帆立でお送りしております。続いての取り組みは新入幕、イカ青龍と、小結、若佐木との対戦です。両者初顔合わせ、注目の一番ですね、鯛乃海さん。

―そーですねー。イカ青龍は今場所、勢いがありますからねー。

―若佐木は三役のなかでは、一番小柄ですけれども、イカ青龍との立会い、どんな作戦を練っているでしょう。

―ま、おそらくねー初顔合わせですのでー

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夕日待ち

夕日待ち

 トクオさんはオレンジ色が好きだった。夕日の色だと言っていた。夕日が好きだから、オレンジ色が好きなのか、はたまた逆か、それは分からなかったけれど、オレンジ色のタオルが洗い上がると、すごい早さで畳んでいく。

 この授産施設には毎日色とりどりのタオルが運ばれてくる。僕たちはそれをすごく大きな洗濯機で洗って、すごく大きな乾燥機で乾かし、きれいに畳んで返す。赤、ピンク、緑、オレンジ、青、水色、紫、黄、同

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