見出し画像

バリ日記1日目(1/3)

入国審査を終え、空港の出口を一歩出ると、そこはエネルギーに満ち溢れる場所だった。むわっとする湿度の高い空気、「タクシー、タクシー」と叫ぶ客寄せの人々の群れ、真新しく巨大な、ごてごてした彫像。なんか濃い。なんか、わさわさしてる。

この人々のなかから、どうやってホテルからの迎えの車を探せばいいのだろう。
途方に暮れていると、海外では急に成人男子としての役目をもりもりと果たす夫が目ざとく見つけた。やるな夫、やればできる子(49歳)。すっかり安心した。

元来怠け者の私は、怠けられる環境に置かれれば、どこまでもどこまでも、とことん怠け倒す。今回の旅は安心だ。なんたって、夫はバリ4、5回目。そのうちの1回はバックパッカーで、3ヶ月も住んでいた! 「任せてよ」とも言われてないのにすっかりお任せモードになり、今回はガイドブックも持たず、下調べもせずにきた。
(ところが、それは大きな間違いだったということが後で発覚する。「バリは、5回目だよ。あ、4回目かな」という、自分の渡航歴すら忘れる彼の記憶力から、その事態を推して測るべきだったのだ。)

ホテルからの迎えの車を目指して、トランクを乗せたカートをぐいぐい押す夫に、私は尊敬の眼差しを注いだ。夫は少し機嫌を直した。

なぜ、夫の機嫌が悪かったか。それは私が行きの飛行機の中で約束を破りそうになったところまでさかのぼる。


搭乗したのは飛行機はタイ国際航空のバンコク経由便で、夫と私はバンコク-バリ間は事情があって離れた席に座っていた。私の隣には、中国系アメリカ人の60代前半くらいと思しきトニーさん。彼は私の隣に来たときにはすでに酔っ払っていて、話しかけてきた。

「Nice to meet you! ひとりかい?」
「初めまして。夫と一緒だけど、夫はあっちに座ってるんです」
いい子ぶって答えるあたくし。しかし、トニーさんは通りかかったフライトアテンダントさんにお酒を頼んでいて私の返事なんか聞いちゃいない。振り返ったトニーさん、 振り返ったトニーさん、
「Nice to meet you!」初めましてから、再スタート。気が抜ける。

彼は2番目の息子の、なんと3回目の結婚式のためにバリに行くという。
「えー3回目?」
「そうそう。息子はアメリカ人なんだけど、中国人の奥さんは一族の姫だから。ほら、一人っ子政策のせいで。1回目の結婚式は中国で、2回目はアメリカでやったけど、3回目はバリでやるんだ」
ほえー。お金持ちはやることが違う。(乗っていたのはビジネスクラスだったのだ。)トニーさんは世界中に車関連の工場を持っているらしい。工場の人たちを家族のように大切にしていると胸を張る。日本にもよく来る、日本は大好きだと言ってくれる。

トニーさんがアメリカ生まれではないことは、発音からわかる。根掘り葉掘り聞いてみる。あたくし、日頃いい子ぶってるけど、けっこう図々しい。
「トニーさんは移民第一世代でしょう?」
「そうだ。私の父は、毛沢東のナンバー3だった…。私は甘やかされて育ってね。勉強もしなかったし、政治の世界に飛び込むのが嫌だったから23歳のときにアメリカに渡ったんだ。アメリカに降り立った時、所持金はたった35ドル」
いきなりすっごい話が出てきた。ザ・アメリカンドリーム! しかし本当かいな。まあいいや。おもしろいから信じておこう。「わーお!」とか言ってみる。声に出してみると、自分でもすっかりその気になる。

トニーさん、アメリカ人だけど自分の妻のことを「He」で語ったりする。彼が気にしていないんだから、私だって英語の間違いを気にする必要はない。じゃんじゃかしゃべる。トニーさん、その合間にどんどんお酒をもらう。彼の前には常にグラスが3つ。タイ国際航空、大盤振る舞い。トニーさん、フライトアテンダントさんがお酒を持ってきてくれるたびに何度も私と乾杯したがる。私が飲んでいたのはミネラルウォーターなんだけど。

どんどん話は盛り上がり、しまいには機内食の香菜を散らしたエビのマリネを、「これ好きか? 私はパクチーが嫌いだ。やる」と、与えられる始末。(これはさすがに打ち解けすぎだと思った。でも、ものすごくおいしかったのでありがたくいただいた。)

そのうちにトニーさんは呂律が回らなくなり始めた。トニーさんは私の親の職業や政治観など、「えっ」と思うようなことをどんどん聞いてくるようになった。これ幸いと、私もさらになんでも聞く。トランプが大統領選に出ていることを、実業家のトニーさんはどう思うか。何年も日本を行って、実業家として日本に今一番足りないものはなんだと思うか。トニーさんも世界中を旅して感じたことや、最近北海道に行った時の話をしてくれる。写真も見せてくれる。すごいラグジュアリー・トラベルっぷりが写真から伝わってくる。

23歳でトニーさんがアメリカに行っていなかったら、今どうなっていたと思うかと質問したら、トニーさん答えて曰く、
「今の中国を見ると、絶対にもっとお金持ちになってたねえ。今と比べ物にならないほど金持ちになっていた。だってほら、コネがあるから。兄も今、軍トップにいるしねえ」
「でも、人生の幸せとか成功の尺度ってお金だけではないでしょう?」
そう聞いてみると、トニーさん、突然寝た。急に寝落ちした。びっくりした。
実は私も眠かった。東京-バンコク間が深夜便だったのに眠れなかったからだ。なので、寝た。すやすやと寝た。

起きたのはバリ到着直前。隣のトニーさんが寝起きの私に聞いた。
「バンコクの空港でワインを3本買ってきちゃったんだけど、バリではお酒に税金がかからないのは1本までなんだって。1本代わりに持ち込んでくれない?」
「ええ、いいですよ」
日頃いい子ぶっていて、基本YESマンなあたくし、寝ぼけ眼でそう答えた。

しかし、少しずつ目が覚めてくるにしたがって思った。あれ? そんなにお金持ちなのに税金払いたくないの? たかだか1000円くらいじゃなかったっけ?

頭の中に池澤夏樹『花を運ぶ妹』が浮かぶ。バリを舞台にした小説。タイで麻薬を覚えてしまった画家の兄が、麻薬密輸容疑でバリ警察に逮捕されたので、語学堪能の妹が死刑を回避しようと奮闘する話だ。インドネシアでは麻薬密輸は死刑だ。

今乗っている飛行機はバンコク発。タイ政府は一生懸命撲滅しようと頑張っているけれど、タイの北部には「黄金の三角地帯」という世界最大の麻薬密造地帯もあるらしい。
万が一トニーさんが悪い人で、ワインの箱の底か何かに麻薬でも入ってたら、私、一発で死刑になっちゃーう!

しかも我が家ではディスカバリーチャンネルなどで、外国に麻薬を密輸しようとして逮捕された人のドキュメンタリーをときどき見ている。『ミッドナイト・エクスプレス』も見た。トルコへの麻薬密輸容疑で投獄された、アメリカ人旅行者を描いた映画だ。麻薬系の映画は大嫌いだ! NO! 投獄生活! NO! ドラッグ! ダメ、ゼッタイ!

頭の中はすでに映画『トレインスポッティング』の登場人物か何かのように焦燥感でいっぱいだ。これは、ダメだ! もしかしたら、ここまでは壮大な仕込みだったのかもしれないじゃないか。

いい子ちゃんの顔が、よじれた靴下のように自分に引っかかっているのを感じながら、着陸間際に思い切って言う。
「ごめんなさいトニーさん。入国時に物を預かるのは絶対にしてはいけないことだったのを思い出しました。ワイン、預かれないです」
気まずい。気まずすぎる。むちゃくちゃ楽しくおしゃべりした後なのに、「あんたは悪い人かもしれないから、預かれないよ」っていうのと同じだから。トニーさんはわかったと言った。

飛行機を降りて夫と落ち合った時、あまりの安堵にワインを預かりそうになったことを言ってしまった。バッグパッカーでバリ滞在中、クタのロスメン(安宿)で散々ジャンキーを見ていただろう夫は「絶対に誰からも物を預からないと約束したじゃないの!」と激怒した。そうだった、家を出る前にそう約束したのだった。

ということで、夫に叱られて始まったバリ滞在。トホホな感じで旅が始まった。トニーさん、悪い人扱いみたいにしちゃってゴメンね!(続く)


▼トニーさんがくれたエビのマリネ。おいしゅうございました。

画像1


最後まで読んでくれてありがとう。気に入ってくださったら、左下の♡マークを押してもらえるとうれしいです。 サポートしてくださったら、あなたのことを考えながらゆっくりお茶でもしようかな。