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立場が少し変わると

今日は患者スピーカーバンクの仕事の打ち合わせをしていていました。その後の雑談で、「研修を受け終わってスピーカーとして登録しても、いざ話をするとなると何を話したらいいのかわからなくなるね」というような話になりました。

私は先日初めて人を前に話をするスピーカーになったわけですが、研修後応募するまで、ずいぶん時間がかかってしまいました。生と死の狭間の体験や、そこで気付きをもたらしてくれた医療職の人のさりげない一言というようなドラマチックな体験談が求められているような気がして、自分にはないなあと躊躇っていたからです。ようやく家族がテーマだという募集がやってきて、これなら話せると思って応募したのでした。


患者スピーカーバンクの講演にはグループワークがつきものなので、すぐに感想が聞けます。病気になっても笑って幸せでいて良いのだという部分と、ずっとナスが嫌いだったことを家族に打ち明けた話が好評でした。

これで、ちょっと脱皮したようです。健康でバリバリ働くのが最高とみんなが思ってるような社会の中で、たまたま病気になって、少し違った立場に立つことになってしまった。そしてものを見る角度が少し変わった。その少しだけ変わった角度から見たことを話せば良いだけなのかもしれないと思うようになってきました。

車椅子で出かけるようになって、すぐに、「東京ってバリアばっかりでしょう」と期待を込めて言われたことがあります。ご期待に添えなくて申し訳なかったのですが、 その方が期待するようなバリアは案外ないのが東京なのです。人も良く手を貸してくださいます。最近はパラリンピックを前にさらに良くなってきています。

でも、小さなバリアはあります。階段を3段上がったところからエレベーターに乗るようになっているビルとか、座った位置からは見えにくいディスプレイとか、車いすからは手が届かない商品とかです。

どれもささいなことで、こんなことで文句を言ったら悪いだろうと思ってしまうような、けれども毎日のことになるとだんだんストレスが溜まってくるようなそういう小さなバリアです。

また、人はみんな親切で喜んで手を貸してくれますが、たくさんのお願いとたくさんのお礼をいうことがじわっとストレスになってくるんです。

もちろん、贅沢です。贅沢でわがままだと思うので起きな声では言わない。言わないと、ほとんどの場合、なかったことになってしまうと考えると、我慢しないほうがいいのかもしれないです。

そういうことも「少し違った角度から見えたこと」とタイトルをつけて話せば受け入れてもらえるかもしれないな。そこに至るまでの自分の心の動きを話せればそれはそれで良いのかもしれない。

多分、中途障害者である私だからこそ見える風景なんでしょう。誰も期待していないところから、誰も期待していないことを言うのはなかなか勇気のいることですが、できるのが私だけだとしたら、やらなくてはいけないことなのかもしれない。多様性に少しは貢献できそうだなとちょっと心が軽くなったのでこのノートを書きました。

 




 

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