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読解力

キャッチフレーズを英語とリテラシーにしていて、今年は、スタンフォード大の「Reading like a historian」を使ったレッスンを始めてみた。自分の中で消化発展させて、歴史学流読解力養成講座にしていければなあと思っている。

そこで、考えてしまったのが読解力とはなんぞやということだ。日本の一大問題として、国語教育が道徳教育のようになってしまっているというのがある。課題文の内容を読み取って答えるべき問題の多くが、道徳的な正しさをヒントにすれば解けてしまうのだ。

なぜこんなことが起こるのかと言えば、コミュニケーションの「伝える」べきことの筆頭が「気持ち」だからだろう。日本の文化では情報は気配りと根回しによって共有されていて当然なので、改めて伝えるべきものは気持になってしまうのだろうとずっと考えていた。気持ちを劇的に伝えるためには書かれていないものを読み取ってもらうと効果的だ。秘すれば花である。

想像力を働かせて、気持ちにより添い、行間を読むのは高度なテクニックだ。国語教育の大きな目標になって当然だろう。だが、あまりにそちらに集中してしまうと、「書かれてあること」「書かれていないこと」を意識するということが軽く見られるようになってしまう。

日本で教育を受けた人の弱点はここ。高橋久仁子先生がいつも力説される「広告に騙されたくないなら行間を読むな」というのもこれだ。例えば『○○酵素で今日もすっきり』を「今日も(おなか)すっきり」「今日も(贅肉)すっきり」「今日も(気分)すっきり」と読解する。

騙されないためには「すっきり」しか書いていない不自然さに引っかかるべきで、そのためには「書いていないからわからないよ」と言う子どもも「その通りだね」と褒めてやらなくてはならない。「動物園に行ったらライオンを見ようとライオンのことばかり考えていました。ところが動物園にはライオンはいませんでした。あんまりがっかりしたので、ほかの動物を見ても全然楽しくありませんでした」と書いた子も「動物園に行って象と、トラとゴリラを見ました。シロクマの隣にアザラシもいました。」と書いた子も褒めてやらなくてはならない。

日本語で読解力というのが行間と気持ちを読む力のことだとしたら、「情報読み取り能力」という別の言葉を作っても良い。リテラシー能力とはまさにこの情報読み取り能力のことなのだ。これはこれで非常に高度な能力で、生きていく上で重要な力だ。

ネットにあふれる情報の海に溺れたくないと思ったら、まずは、「書いてあること」「書いていないこと」を意識して読めるようになって欲しい。




 


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