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パパの水疱瘡。最悪の症例を生きて体験した私たち

voices for vaccine のブログから。

この記事は有料ですが、全文無料で読めます。最後に著者の情報と翻訳者のメッセージがあるので、よろしければ購入してお読みください。投げ銭していただいた料金はまとめて元サイトvoices for vaccine に寄付しています。
はじめに。とてもショッキングな内容ですが、出来るなら「ワクチン打たなかったらこんなにひどい目にあった」という読み方はしないでください。人類の最大の敵である感染症が隙をついて襲ってきたらこんなことも起こってしまうのだという悲しみの物語です。人間にとっての最悪の危険動物は蚊と言われていますが、それも蚊が感染症を運ぶからです。文中のリンクは出来るかぎり日本語の同じようなものに差し替えてあります。
元記事のリンク
http://voicesforvaccines.org/we-lived-the-worst-case-scenario

2018年10月9日投稿

この記事を書こうと机の前に座り、「どこから始めたらいいのだろう」と自分に問いかけました。12月の末から始めるのが一番よさそうです。
夫のスコットと私は、きれいな大きな一軒家を分割した、なかなか良いアパートの1階部分に引っ越したところでした。(欧米では大家族のために建てた広い家を1階部分、2階部分、屋根裏部屋などと分割して、賃貸アパートとして貸し出すことがある。)とても広くてすっかり気に入っていました。寝室に直結した作り付けのバスルーム、低温の食料保存室、共用じゃない洗濯室、大きな窓があって、閑静な住宅街にありました。もうすぐ10歳になる娘のヘイリーは転校せずにすみました。スコットは正社員で商品担当の仕事をしていて、仕事好きでした。ようやく何もかがうまく行き始めていたんです。

12月の第一週に母が姉の二人の子が水疱瘡になったと言ってきました。いずれにしてもクリスマス休暇の時にしか会わない子たちなので、大して心配はしていませんでした。スコットが水疱瘡にかかったことがないのは知っていました。ヘイリーもまだかかっていなくて、予防接種もしていませんでした。けれども姪と甥から移る可能性はほとんどないと思っていたのです。クリスマスまで会わないし、まだ何週間も先でした。

それからしばらくは普段通りの暮らしが続きました。クリスマスツリーを出して飾りがずいぶん壊れていたのをみつけたときにスコットとけんかをしました。けんかのせいで気が動転していたので、12月10日に、母が姉の子どもたちと一緒にクリスマスクッキーを焼くから家にいらっしゃいなと電話をかけてきたときには、ヘイリーに水疱瘡がうつることはないと簡単に思い込んでしまっていたかもしれません。なんにせよ姪と甥の水疱瘡はかさぶたになっていて、二人とも元気になっていたのです。

13日後、ヘイリーの具合が悪くなりました。12月24日に発疹が始まった時には、私はもう完全にパニックモードでした。それだけでなく、もし水疱瘡がスコットにうつってしまったら、重い症状になってしまうことも知っていたのです。どのくらい悪くなるのかはわかりませんでした。けれども不運にも私たちはその答えを体験してしまうことになってしまいました。

まわりの人たちからは、スコットは子どもの時に水疱瘡になったことがないのに、なぜワクチンを打っていなかったの?と聞かれることもありました。(大人の水痘について国立感染症研究所のページへ)スコットはワクチンを打ちますかと聞かれたこともあったのですが、注射は嫌だからと断っていました。「どうせ水疱瘡だろ。最悪どうなるって言うんだ」と言っていました。今はあの言葉が大嫌いです。皆さんには最悪どうなるかお話しますね。私は体験したので、最悪の症例の概要をお話できます。

ヘイリーの水疱瘡はそんなにひどくありませんでした。いくつか水膨れができて、一番発疹がひどかったのは背中でした。ずっと水膨れを触っているので、「やめなさい」と強く叱ったことを覚えています。傷跡が残るからとも話しました。またヘイリーがスコットに近づかないようにしようとしましたが、父娘はとても仲良しだったので、一緒にいないようにするのは難しかったです。パパに近づいちゃだめよと話して、後ろを向くと、もうスコットの隣で丸くなって寝ているのです。スコットにも危険だと言っていたのですが、私の心配を笑い飛ばして、過剰反応だよ。病気になったとしても大したことないさと言いました。

2008年の大晦日、スコットの親友マットと奥さんのサラが家に招いてくれたので、ヘイリーも具合が良くなってきたし、その週、子供の病気で二人ともずっと家に籠っていたので、行くことにしました。スコットはソファに座ってそのまま眠ってしまいました。私はおかしいなと思ったけど、何も言いませんでした。次の朝、スコットは仕事に行かなくてはなりませんでした。その日の午後1時半ごろに私に電話をかけてきて、気分が悪いんだと言いました。今となっては心底後悔しているんですけど、私は笑い飛ばしてしまいました。彼にたぶん水疱瘡なのに仕事に行ったお馬鹿さんと言ってしまいました。帰ってらっしゃいと言いました。

その夜スコットの皮膚に発疹が出てきました。いくつかがわきの下に、背中一面に、それから太ももの間に。スコットは写真を撮るのが大好きだったので、さっそく発疹の経過の記録を取り始めました。二日目には全身のあらゆるところに発疹が出てきました。三日目には喉が痛くて飲み込むのが辛いと言い、瞬きも、トイレに行くのも痛むと言いました。その後何にも食べられなくなりました。

4日目、1月4日には30時間近くトイレに行きませんでした。飲むこともできなくなっていたのです。私はなんとか無理にでも水分をとらせようとしましたが、もう何も欲しくないと言うようになっていました。私はとうとう救急車を呼びました。もう他にどうしたらいいのかわからなくなっていました。救急救命士がやってきました。私はここで、二つ目の間違いをしてしまいました。スコットの運命の二つ目の分かれ道だったのに。これからずっと後悔するでしょう。

救急士はスコットの状態を調べて、酸素飽和度は大丈夫で、意識もはっきりしていて、自力で動けて、高熱でもない。病院に連れて行っても救急室の待合室で何時間も待って、抗生物質が出て、感染症なのに病院に来るなんてとお説教されるでしょうと言いました。スコットが望むなら病院に行くけど、行かないことをアドバイスしますと言いました。スコットはああいう人だったので、行かないと言いました。

次の日、スコットは悪化しました。「病院に行こうよ」ともっと強く言って説得し続けなかったことでずっと自分を責めてきました。彼は大人でしたが、私は医療の世界に関わってきた人間でしたから、彼よりも知識があったはずなのにと感じています。5日目になって、目が覚めている時間がなくなってきました。ずっと眠っていて、起きているときには痛みですすり泣いているようでした。私はソファで仮眠を取ろうと思ってその前にスコットの様子を見に行くとベッドから床に落ちていました。(ベッドに戻れるように)起こそうとしましたが起こせませんでした。もう一回救急車を呼んで、病院に行っている間ヘイリーを見ててもらえるようにマットとサラに電話しました。なんとかスコットの目を覚ますことができて、彼はリビングルームに行こうとしましたが、ふらふらで行けませんでした。ソファまで支えていって彼を座らせました。その時に自分がべたべたしているのに気が付きました。スコットの水泡が破れて体液が染み出してきていたのです。私の髪も、顔も手も彼に触れていた部分は、どこもかしこも濡れていました。彼の全身が濡れていました。救急車が来た時、今度は絶対に病院に連れて行くようにしっかり念を押しました。

救急車はすぐに彼を乗せていき、救急救命部の裏にある隔離室に彼を入れました。1時半ぐらいまで付き添っていましたが、病院のスタッフに家に帰りなさいと言われました。まだ何時間もかかるだろうし、家では子供が待っているので、家に帰りました。もし彼に残された時間がわずかだと知っていればずっと一緒にいただろうと思います。

次の日ヘイリーは起きると学校に行きたくないと言いました。言い争いになりましたが、最後には行かなくていいと言いました。その朝は娘とけんかする元気はなかったのです。病院に電話するとスコットは上の階の重症患者室にうつされた、担当している専門家と話をしてほしいから来てくれと言われました。

病院に行くと、スコットは完全に肝不全になっていて、両側腎不全になっていて、加えて皮膚にあまりに多くの感染があって「保全が心配される」と言われました。こうした語句はどんなに忘れたいと思っても脳に焼き付けられています。この言葉もその一つです。今はどういう意味なのか分かりますが,その時には分かりませんでした。マットとサラ、私の両親、スコットの両親に電話して、良い感じではないのでみんな来てスコットに会ってやってと言いました。

この時スコットは点滴に繋がれて、モルヒネと抗ウイルス剤を投与されていました。浸出液がひどくて毎時間シーツ交換しなくてはなりませんでした。(シーツ交換で)動かされるたびにスコットは触れられる痛みで「皮膚が痛い」と言って泣きそうになっていました。目がふくらんできていて白目が赤くなってきていました。

その日は一日付き添っていました。彼の両親と兄弟が来た時だけ、家族だけの時間にしてあげようと席をはずしました。ヘイリーも一息つけるようにこの間にカフェテリアに連れて行って軽食を食べさせました。7時半に面会時間が終わりに近づくと、次の日がヘイリーの誕生日だったので、スコットはヘイリーを連れて帰るように、また明日会いに来たらいいからと言いました。なので荷物をまとめて家に向かいました。

夜の10時23分、電話がありました。あの電話は一生忘れないでしょう。スコットは私を愛している、すべてが残念だ。全部が、でもすごく疲れているのでこれで切ると言いました。僕に代わってヘイリーにお誕生日おめでとうと言って欲しいというので、明日の朝自分で言いなさいよと言いました。私はまたしても冗談のつもりで、ヘイリーに伝えてほしいなんて言うのはおバカさんよと厳しいことを言ってしまいました。スコットはもう一度愛しているよと言って、それから「さようなら」と言いました。

あの時に悟るべきでした。スコットは絶対にさようならとは言わない人で、いつも「またあとでね、バイビー」と言っていました。この時には私たちを残していくのだとわかっていて「さようなら」と言ったのだと思います。

次の日の朝、ヘイリーの誕生日で、朝ご飯はブルーベリーパンケーキと約束していたので、6時15分に起きました。ヘイリーを起こして、身支度を始めるように言ってパンケーキの種を混ぜ始めたときに電話が鳴りました。ディスプレーを見ると
6:37ゲルフ総合病院とありました。スコットがヘイリーにお誕生日おめでとうの電話をかけてきたのだと思って彼の声が聞こえて来ると思って電話に出ましたが、女の人でした。彼女は名乗ったのですが、名前は思い出せません。彼女はパニックしないで欲しいけど、発作が起こったので、来てほしい人たちに知らせる必要がありますと言いました。慌てることはないけどできるだけ早く病院に来て下さいとも言われました。 

病院につくと、スコットが起き上がって空気を求めてあえいで、血の混じった液体を吐いて、意識を失ったと聞かされました。心臓発作が起きて脈が消えたものの、心臓を再起動することはできて、液体がどこから来たものかを探っている所だと言うのです。スコットをロンドンの(筆者の住むカナダ・オンタリオ州の大学町/アメリカやカナダにはロンドンやパリという名の町がたくさんあります)ユニバーシティ病院に空輸したい、イギリスから来てここで働いている免疫学者がいて、何かできることがあるとすればそれが一番可能性があるというのですと言われました。私は即座に合意しました。けれども雪嵐が来てしまいました。

スコットを運ぶ救急車に付き添って乗っていく緊急チームを組織するのに1時間掛かってしまいました。妊娠していないか、水痘抗体があるかで選抜しなくてはならなかったからです。この時点で医療スタッフはスコットの水疱瘡は突然変異ウイルスなのじゃないか、ここから致命的な水疱瘡のアウトブレイクが始まるのかもしれないとと考え始めていました。

父が私をロンドンまで車で送ると言ってくれたので、救急車の後からついていきました。雪嵐の中だったのに救急車は予定よりずっと早くユニバーシティー病院に着きました。飛ぶように飛ばしていたのです。1時間45分で着きました。

病院に着くと、最高に優しい気づかいに満ちた言葉で、スコットの死に備えて準備をするようにと告げられました。スコットは肝不全で、腎不全(両方)で、大きな心臓発作を起こして、そして皮膚機能不全でした。病院は彼を透析装置に繋いで、できることはすべてしていました。その時点でスコットをほぼ4時間見ていませんでしたが、ようやく彼を見ることができたときには、スコットだとはわかりませんでした。

皮膚機能不全は皮膚の表面があまりにも多くの場所で破れて感染して皮膚が黒くなって壊死すると起こります。スコットは野球のバットか角材で頭のてっぺんから足の先まで余すところなく殴られた人のように見えました。むくんでゆがんでいてほとんど面影はありませんでした。頭から足先まで灰色か黒くなっていてそして全身が点滴や医療機器の管に繋がれていました。私の夫どころか人間にも見えませんでした。ヘイリーを連れてこなくて本当に良かったと思いました。次の日は病院の廊下をさまよったり、スコットに付き添ったりしていましたが、記憶は朦朧としています。彼と一緒にいれば私の強い強い意思の力で彼は生き延びるに違いないというおかしな論理を信じ込んでいたのです。

1月8日木曜日の午後、また発作が起きました。これは脳に影響があって後に検死解剖の時脳の塞栓症だとわかりましたが、この時は何が起こったかスタッフも説明出来ませんでした。脳波計を取り付けようとするたびに皮膚ごと滑り落ちてしまい、計測ができなかったのです。

次の朝、脳機能の活動を読み取れないと告げられました。それに加えて、もしスコットがこの水疱瘡の最悪の病例を生き延びたとしても腎移植、肝移植、皮膚移植が必要だしそれでも脳損傷が激しいので、寝たきりのままだろう。二度と話すこともなく私たちのこともわかるようにはならないだろう。生き延びたとして期待できる最善でも自発呼吸だろう。決断するのは私だと言われました。私が望む限りできる限りのことは続ける。けれどもこの時点で病院側は避けられないものを延期しているだけだと感じていました。

2009年1月9日金曜日午前10:55、発病後8日目にスコット・エドワード・キーナーは誰にとっても大したことがない「ただの子どもの病気」で死亡しました。健康で均整の取れた身体でタバコは吸わずお酒もやめた33歳でした。私の夫でヘイリーの父親でした。

もし過去に戻れて、自分とスコットに今持っている情報を渡せたら、二人とも予防接種について違った決断をしたのは間違いないです。他の人たちが同じ間違いをするのを防げるように願ってこの話をしています。同じ理由でお医者さんたちがこの病例を教育用に使うのも支援しました。スコットが自分を撮影した写真、病院が引き続き記録していました。ですので、発病から検死まで病気の進行状態の完全な記録になっているのです。臓器や組織を研究用に採取するのも許可しました。もしこれがまた起こってしまうのを防げるなら、できるだけのことをします。

スコットの検死解剖の結果、水疱瘡が体内にも広がっていたのがわかりました。鼻腔内にも、食道にも、肺にも、胃壁にも、副鼻腔にも、目と耳の内部にも、口の中にも、直腸腔にも、すべての臓器内と全身に。体が抵抗をやめる前に彼が味わった苦しみは恐ろしいものだったでしょう。注射針のチクリとした痛みと一日か二日だるいと感じるのが、この苦しみの代わりになるとしたら、迷う理由なんてないでしょう。

皆さんには私たちの間違いから学んでほしいのです。簡単に予防できる病気で愛する家族を死なせないで。水疱瘡みたいな病気はいつも軽いに決まってると自分に思い込ませないで。私の話からそれだけでも覚えて帰ってほしい。統計から出て来る確率がどれだけでも賭けてみる価値はありません。賭けられているのは人命です。統計に死亡と書かれている命の一つは私の夫でした。どうかあなたの夫や子供の命をその一つにしないでください。

ここまで無料です。この先に筆者についての情報と翻訳者の私のコメントがありますので、よろしければ購入してお読みください。料金の一部は随時まとめて元記事のサイトvoces for vaccine に寄付させていただきます。

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