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ポケットティッシュは大事

 12月某日。渋谷駅まで歩いていたとき、交差点で人混みを避けて信号待ちをしていたら、車の走行音を遮るように地面に何かが落ちる、鈍い音が聞こえた。

 その音の先を見てみると、腰の高さまであるガードレールに、綺麗におめかしをした20代半ばから後半くらいの若い女性が前傾姿勢で寄りかかっている。彼女の口からは吐瀉物がこぼれ、足元にはそれらが派手に飛び散っていた。自分以外の人間が嘔吐する瞬間を見たのは、人生で初めてだった。

 隣には友人と思しき女性が、彼女の背中をさすっている。彼女たちの半径5m以内に、わたし以外の人はいなかった。だからここが空いていたのかと腑に落ちる。それにしてもとんでもない惨事だ。頭からつま先までめかし込んだ女性の足元に、吐瀉物が広がる。その違和感から、彼女たちから目が離せないでいた。

 介抱する友人は、遠くで様子をうかがっている同じグループの友人たちに「除菌ティッシュ買ってきてもらえる?」と頼む。すると再び、嘔吐した女性の顔を覗き込み、ねぎらいの言葉を掛け続けた。吐瀉物なんて嫌悪感を抱く人が多いのに、ここまで甲斐甲斐しく面倒を見るなんて、なんて優しい子なんだ。胸を打たれた。だが少し心のなかで引っ掛かることがあった。

 この子たちティッシュ持ってないの?

 そんなに綺麗で高価なお召し物を着ていて、吐瀉っ子もその友達もティッシュ持ってないの? 嘘だろ? 嘔吐してる本人はハンカチすらないの? 嘘だろ!? 身だしなみどうなってんの!? ほんでもって街が汚れてるよ! そんなところに吐いちゃって、誰が処理するのさ! どうすんのさ!! 20時に吐いてるってことは飲みすぎか!? 自分の飲める量くらい把握しておけよ! いや、もしかしたら徹夜明けとか乗り物酔いかもしれない! 無理矢理飲まされたのかもしれない! だとしたら彼女を責めるのよくない! でも街が汚れてるよ! あああああ!

 いくらティッシュを買ってくると言っても、近くのコンビニまで行って帰ってくるのに最低でも5分はかかるだろう。介抱をしている友達にとってその5分は、途轍もなく長いに違いない。そしてティッシュを持っていたからこそ危機的状況を回避できた経験があるわたしは、ティッシュを持っていない状況がとてもつらいことも重々理解している。

 それらのことを3秒ほどで考えたわたしは、リュックから除菌ティッシュを取り出しながら、彼女たちの元へと歩き出した。そして友達の目の前で除菌ティッシュを5枚ほど取り出して手渡した。40枚入りの新品を開封したばかりだったので、袋ごとあげるほどの余裕はなかった。ケチでごめん。

 もといた場所に戻るものの、ふと思う。こういうときは間違いなく、ウェットティッシュだけでなく乾いたティッシュもあったほうがいい。そういえば今日、手持ちのティッシュがなくなりそうだからと、健康診断でもらった未開封ポケットティッシュをリュックに入れたばかりだった。再び彼女たちに近づいて、「よかったらこれも」とそのポケットティッシュを手渡した。

 弟にそのエピソードを話したら、「見ず知らずの人によくそこまでしたね」と感心された。だがそんなに褒められたことではない。わたしは全然、彼女たちに優しく接することができなかったのだ。

 危機的状況を手助けしたい気持ちはあった。だが街を汚していることや、ノロウイルスの原因になりうるものを排出していること、こんなに綺麗なお洋服を着ているのに身だしなみとしてティッシュを持っていないことには腹が立っていた。調子に乗ったがゆえの飲みすぎからの嘔吐という可能性も否定できないし、その確率が最も高いだろう。いろんな考えが渦巻いた結果、口からこぼれてきた台詞はこうだ。

「わー、こりゃやばいっすねえ……。大変だ。まじでお大事に」

 なんて愛想の欠片もない言葉だろうか。本当に反省している。ここで「大丈夫ですか!?」「ちゃんとあったかくしてくださいね!」と言えたら聖人なのに。この心の狭さがものすごくわたしっぽくて、だいぶ落ち込んだ。

 それでも弟は「あったかい言葉よりも、行動してもらったほうがうれしいでしょ」と、あったかい言葉でフォローしてくれた。弟ならもっと気の利いた言葉を彼女たちに投げかけられていたのだろうなと、再度反省した。

 出先でティッシュが必要なときはいつも突然で、すぐさま買いに行けない状況下がほとんどだ。荷物がかさばるからとティッシュを持ち歩かない人も多いかもしれないが、緊急時を考えると持ち歩いていたほうがいいアイテムのひとつである。

 最近は無印良品や100円ショップに、ハンカチ兼ティッシュ代わりになる携帯用のペーパータオルも売っている。ティッシュよりも丈夫でタオルを繰り返し使用するよりも衛生的なため、ハンカチ代わりに使う人も少なくないらしい。わたしもハンカチやティッシュを忘れたときのために、つねにカバンに入れている。

 だがこんなことを言っているわたしも、ポケットティッシュを必ず持ち歩くようになったのは学生時代のとある事件がきっかけだった。このエピソードを話すと、必ず笑いを取れる。わたしの唯一のすべらない話である。その話もいつかこのnoteに書けたらなと思う。

 というわけで、まじでティッシュはいつなんどきも持ってたほうがいい。いくら小さいカバンや手ぶらが流行っても、無理矢理にでも入れたほうがいい。かばんの中でくしゃくしゃになったりゴミがくっついてたとしても、それでも持っていたほうがいい。窮地を救ってくれるのは、ふさふさのファーでも、きめ細やかなコートでも、煌びやかなネイルでも、華奢なヒールでも、しなやかにカーブする巻き髪でもない。普段あまり出番のないティッシュなのだ。

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