短編小説:回らないお寿司(4000w)

 木曜日、日付が変わる手前。瑠美から電話があった。受話器越しの彼女はしゃくりあげるのを必死に堪えながら「こんな、夜中に、ほんとに、ごめんね」と一言一言ゆっくりとつぶやく。

 彼女と出会ったのは7年前、中途採用された某ファッション誌の編集部の先輩だった。同学年ということで意気投合し、仕事後にたまに飲みに行くなどしていた。2年前にわたしが結婚を機に退職してから、誕生日や年始のタイミングでLINEを送り合って、近況報告をする仲である。

 つい1週間前、彼女に誕生日祝いのLINEを送ったばかりだった。ご機嫌なスタンプと「また近々会おうねー」なんてメッセージをくれた彼女の姿はなかった。

「ふられちゃった」
「え? ふられたって、彼氏に?」

 瑠美は声を震わせて小さく「うん」と言う。瑠美の彼氏はたしか、大学時代にテニスサークルで出会った同い年の同期。瑠美の片想いが大学3年生の時に実を結び、交際期間はじつに11年にものぼる。そろそろ結婚するのだろうと信じてやまなかったので、寝耳に水だった。

 瑠美の声は混乱した感情の化身。次の日の夜に会って話を聞く約束をした。会うのは彼女の悲しみがくらむ場所がいいだろう。新宿の雑居ビルの7階にある、半個室だが騒がしい居酒屋に予約を入れた。

 予定時刻に店に着くと、すでに瑠美の姿があった。見るからに悲しみのオーラを纏っており、まるで大雨のなか佇む滑り台のようにうなだれていた。

「遅くなってごめん」

そう声を掛けると、瑠美はうつむいた状態で大きく首を横に振った。

「今日は急にごめんね」
「いいよいいよ、今日は旦那も帰り遅いみたいだから」

 不甲斐ない自分を責めるように何度も謝る瑠美。テーブルの上の黒い取り皿に、涙の跡が浮かび上がっていた。

 瑠美は伏し目がちに、彼にふられた経緯をとつとつと話し始めた。瑠美の誕生日祝いに、銀座のレストランでディナーを楽しんでいた時だったという。メインディッシュまで済ませたあとに彼が「話があるんだ」と切り出す。瑠美はプロポーズを期待した。だが彼の口から出てきたのは、半年前に一流企業である勤め先を退職していたという衝撃的な告白だった。

「全然気付かなかった。だってふつうに出社してたし、会社の話もしてたんだもん。騙されてたんだって思ったら、ショックで声が出なかった」

 瑠美は混乱しながらも彼になぜ退職したのか問うた。どうやら同僚の大学の後輩である25歳男性が代表を務める新会社の立ち上げメンバーに勧誘されたらしい。その若社長と彼が知り合ったのは5年前。彼はこの5年、瑠美にその若社長男の存在を明かすことはなかった。

 なにより問題なのは事業内容である。内容としてはどうやら「魔法の水」的なアレで、あきらかにインチキでゴミみたいな商品を超高額で売りつけるというものだった。

「それって詐欺だよね?」
「詐欺じゃないよ。だって富士山の麓から汲み上げている水だからね。俺だってその水を飲み始めてから仕事も好調でさ。瑠美だって俺のこと『最近すごく調子良さそうだよね』って言ってたじゃん」

 慌てる瑠美。嬉々として語る彼。瑠美は切羽詰まった表情で彼の手を取り、語気を強めて訴えた。あなたは騙されてる。いますぐに手を引いて。なんでいままで黙ってたの。なんで相談してくれなかったの。お父様お母様はこのこと知ってるの。どうなの。ねえ辞めようよ。いまからでも遅くないよ。そんな会社辞めようよ一刻も早く。ねえ。ねえ。ねえ――。すると彼の表情が豹変したという。

「お前はいつもおせっかいなんだよ。俺のこといつも下に見てんだろ? お前はファッション業界っていう華やかな場所で仕事をしててさ、こつこつ地味に働いてる俺に小言ばっかり言ってきた――」

 そこから彼はたまりにたまった11年分の不満をぶちまけた。その一言一言が瑠美の心臓にねじりこまれていった。

「そんな交友関係に気付けなかった自分が本当に情けない。もっと早くに気付いていたら彼を止められたのに」

 瑠美のつぶらな瞳から大粒の涙が、カシスオレンジの入ったグラスの脇に水玉を描いていく。わたしは「そうだね」と言うことしかできなかった。女性としていちばんいい時期とも言われている時代の自分を、彼だけに捧げてきた瑠美のことを、わたしは知っている。彼へのプレゼントを真剣に悩んでいる姿も、彼の言葉に救われたと笑う姿も、とてもとても幸せそうだった。

 その夜から約10ヶ月経った、わたしの誕生日。瑠美から誕生日祝いのLINEが届いた。そのタイミングでごはんに誘った。赤坂にあるビルのワンフロア一面に広がるバル。1年ぶりに会う瑠美は、長かった髪の毛をボブにしていた。ワインを嗜みながらお互いの近況報告をしていくなかで、いまだに彼女が彼への想いを捨てきれていないことを知った。

「いまでも仕事でうれしいことがあれば真っ先に『彼に報告しなきゃ』って思っちゃうんだよね。iPhoneを手に取って『ああ、フラレたんだった』と落ち込むの。スーパーとか行っても彼の好きな食材を見かけたら条件反射的に手に取っちゃう」

 恥ずかしそうに、寂しそうに瑠美は笑う。11年という年月で彼女に染みついた彼の存在は、なかなか取れるものではなかった。いつか戻ってきてくれるはずだとまっすぐ強く願う瑠美を見ていたら、「ほかの人を探しなよ」とは言えなかった。

 そこからわたしが夫の転勤で福岡に移住し、妊娠と出産などを挟んだため瑠美とも疎遠になった。だが最後に会った1年半後、瑠美から「友達の結婚式で福岡に行くから会わない?」という連絡が来た。せっかくなので、夫の会社の人がすすめてくれた寿司屋に予約を入れた。

 久し振りに会う彼女は昔のように髪を伸ばし、なんだか少し綺麗になっているような気がした。どうやら最近社会人ドラム教室に通っているらしい。映画『ボヘミアン・ラプソディ』のロジャー・テイラーに惚れこみ、最近Queenの曲をマスターしたらしく、映画やドラムの感動を興奮気味に語ってくれた。

 日本酒を嗜みながら、最後に会った日からの1年半を語り合った。瑠美はわたしとの会話で「次に進まなくてはならない」と強く思ったと話す。だが新しい恋をする気にもなれないので、ひたすら仕事に没頭することにしたという。するとそれから2、3ヶ月後、彼女にふと「なぜ別れてから1年以上も経っているのに、彼にそこまで固執するんだ?」という疑問が浮かんだ。

「その理由をずっと、彼が好きだからだと思ってたの。でも実際は『11年も付き合ったのにもったいない』からだったんだよね。諦めたら11年を棒に振ると、頭のどこかで思ってた」

 それに気付いた瞬間、瑠美の心のなかで彼への積年の想いが瓦解した。その瓦礫のなかから、いろんな財宝が出てきたそうだ。

「わたしのいちばんの理解者は彼だと思っていたし、ここまでわたしのことを理解できるのは彼くらいだと思ってた。でもそれって実は、自分のことを他人に理解してもらうことや、相手のことを知ることに労力や時間を使う余裕がないいいわけだったんだよね」

 最後に会った時にはすでに瑠美もはっきりと「自分のこういうところが悪かったから彼にフラレたんだ」という理由を導いていて、反省もしていた。

「恋愛に限らず人間関係全般に言える気付きだったし、その反省が自分をまた変えてくれた気がするの。だいぶ人間としてまともになったと思う。だから、彼と別れて良かったんだよ。別れないと気付かなかったもん」

 あっけらかんと語りながら幸せそうに中トロをほおばる瑠美は、10年近い付き合いのなかでいちばん生き生きとしていた。

「たまに夜中に眠れなくなったり、悩んだりするとき『こんなときに彼に電話をしてたな』なんて思ったりもするんだけど、それができないならできないでほかの方法があるもんね。友達も両親も相談すれば親身に乗ってくれるし、仕事場にもわたしのことを理解してくれる人や、わたしの頑張りを見てくれる人もいて。彼がわたしの生活から消えてから、いろんなことが見えてきたんだよね」

 瑠美と彼の歯車は、だいぶ前から知らず知らずのうちに狂い出していていたのだろう。だが瑠美も彼も、それに気付かないふりをしていた。なぜならふたりとも相手のこと――もっと言えば「過去の相手」のことを好きだったからだ。いつか昔の彼に、瑠美に戻ってくれるんじゃないか。あの時みたいな気持ちで笑い合えるんじゃないか。そんな淡い期待を抱いていたのだ。

 だが人間は過去の自分には戻れない。こんな新鮮な回らないお寿司の味を知ってしまったわたしと、その味を知らないわたしは別人だ。

「こんなに美味しいお寿司食べたことないよ」
「わたしもそう。びっくりしちゃった。お寿司といったら北海道だと思ってたんだけど、このお店でシャリの奥深さに気付いたよね」
「わかる。この絶妙な酢加減と温度とやわらかさね」
「若い頃では気付けなかった旨味だわ」
「あははは。うちらだってまだまだ若いって」
 
 瑠美はその日の最終の飛行機で帰っていった。彼女を駅まで見送ったあと、夫から帰宅時間を訊ねるLINEが入った。息子のおむつ替えに苦戦しているらしい。慌てて携帯をポケットに入れ、わたしは家路を急いだ。

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