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立ち食い蕎麦屋のバイトから始まってその後インドネシアに住み昨年帰国したサラリーマンの話 その3

20歳から57歳までのワタシの人生

1990年、26歳で現在勤務している会社に転職。
人事面接でどういう仕事をしたいかと聞かれ、迷いなく
「倉庫で働かせてください」
そう言うと、人事部長は驚いた表情で「倉庫でいいの?」 
ワタシ「倉庫がいいんです」
珍しいねぇ、若い人は倉庫勤務を希望しないけど。
いえいえ、是非お願いします。

一週間の研修後に頂いた辞令は 「〇〇営業部〇〇課」 おいおい・・・

配属された部署は、希望とは全く異なる、輸出入書類の作成や、通関・配送の手配を行う部署であった。(しかも勤務地青山って・・・)
全く経験のない仕事に戸惑う、とにかく周りの人に聞きまくり、なんとか手配をする。いわゆるバブル期であったはずだな、とにかく忙しい毎日で、毎晩夜中まで残業続き。一か月の残業時間が100時間を超える事はざら、最多残業時間は一か月150時間だったと記憶している。

何が辛かったか。
英語・ネクタイ・お客様との折衝、自分の人生で絶対にやりたくない仕事3つが完揃い。電話を取ると「ピピッ」という音が鳴る事がある、この電話は知らん顔してすぐに受話器を置く、何故なら海外からの電話だから。

必死に働いて3年ほど経った頃、それなりに仕事はこなせるようになり、景気の良かった時期だったので、上司が海外出張という名の海外研修に連れ出してくれた。
香港・マカオ、初めての海外はとてもキラキラして見えた、うん。 
でも何を聞かれても全くわからない、灰皿下さいの一言すら話せない、とにかく上司の注文するまま食べて飲んで、そんな海外出張(研修)に行かせて貰える、夢のような時代であった。

29歳 結婚
32歳 離婚
ここは割愛、書きたくない。ただ奥さんになって頂いた方には、申し訳なかったと思う。まだまだ自分が子供であって、現実的すぎる彼女が息苦しくて一緒に居られなかった。

仕事の方はお客様に可愛がっていただき、営業として少しずつ成果が上がってきた。自信とはいかないものの、なんとかなるかも、そんな気持ちが持てるようになって来た。お客様と懇意にして仕事を頂くというベタな営業スタイルがまかり通っていた時代、上司の指示もあり、ひたすらお客様に張り付いて香港・マカオ・上海・大連・青島・杭州・北京・天津・釜山・ベトナムなど、ひたすら海外出張に行かせて頂き、少しずつ中国語も勉強し、片言のあいさつ程度ならなんとかこなせる程度になってきた

とはいえ海外志向は全く無く、国内転勤もなく、たまに出張に行く程度の仕事は非常に自分の性格に合っていた。

ところが2001年、国内物流がメインの会社が、国際物流がメインの会社と合併し、会社は一気に国際物流企業へと舵を切ることになった。
会社の合併時に良くある「社員同士の交流」と称して、ワタシはもともと別だった国際物流がメインの会社に移動となった。
今までの仕事とは全く異なる、日々緊張感に押しつぶされそうな業務に追われ、またもや毎晩残業続き、しかも海外との電話やメールのやり取りは基本英語、もはやイジメかと思うほどワタシの適性を鑑みない人事。
更に悪い事は続く。ワタシが移動したことにより、もともとその会社にいた若手社員は、望まぬ職種に異動となってしまった。この若手社員が曲者で、引継ぎはしない、口も聞かない、俺の後任は英語も離せない奴と吹聴しまくる、そんなヤツ。ワタシは心身ともかなり限界に近づいて行った。

プライベートでは1999年に再婚し、2000年に長女が誕生していた。
長女がいなかったら、おそらく、いや間違いなくワタシはこの時点で会社を辞めていた。さすがに子供が出来て、もう転職には遅い歳。バブルもはじけ景気は最悪の時代。(子育てという言葉は間違い、子が親育て だと思う)

必死に業界用語(英語)を勉強、土日もひたすら英語の勉強、努力は実を結び、メールも出張に行っても、何とか英語でコミュニケーションが取れる様になっていた。
気が付いたらあっという間に40歳、「お本読んで」「抱っこして」「手を繋ごう」「遊んで」そう甘えてきた娘に応えず、十分な愛情を注がなかったことが、今でも本当に悔やまれる。

この頃、ある東北地方の出張所の所長を兼任する事になった。
これも全く経験のない分野の仕事であり、長年赤字経営で会社のお荷物の出張所。全く気が進まない、押し付けられた感しかない。
毎週金曜日の夕方に新幹線で出張所へ行き、土曜日夜の新幹線で帰宅する。
そんな生活が1年半ほど続いた。毎月大赤字の出張所であったが、特殊な設備を備えた出張所だったので、クローズでお終いという事は出来なかった。
建設時の減価償却が5千万円以上残っていた。しかも毎月の赤字は5百万円。
売却するのが最善の策であったが、景気悪化の最中、どこも買って頂ける会社は無かった。しかも下請けのサブコン(仮にA社とする)業者が怪しい、ワタシの前任は接待漬け、P/Lを見ると毎月の経費が以上に掛かり過ぎている。

狭い田舎町、地場のホームセンターやゼネコンを回って話を聞いたところ、あっさりと実情がわかった。例えば出張所で掃除機が必要だと言って購入
する際、A社は掃除機を二つ購入し、一つは自宅へ持ち帰っていた。
また何か修繕工事が必要な際、見積りを2つ作らせ、高い方の見積書を弊社へ提出し、実際には安い方の見積書の工事を行い、差額を個人口座へ振り込ませていた事が判った。

A社の責任者(首謀者)を問いただすと、苦々しい顔をして「くそ、バラしやがって」 既に信頼できる次のサブコンのあては付けてあったので、A社に
契約打ち切りを宣告。
その首謀者は開き直って「半分送金するからお前の口座を教えろ」と言う。
そんな気は毛頭ないので即答で断ると、ありきたりのパターン。
「何も無しで済むと思うなよ、二度とこの街に来られると思うなよ」

勿論それも織り込み済み、次のサブコンのボスへ事情を話してあって、地元のネットワークでその首謀者に逆に脅しが入り、その首謀者自身がその街へ「出禁」となった。

新しいサブコンのボスは、とても正義感の強い律儀な方であった。
ワタシが出張に行くと、駅前にクラウンを横付けし「ご苦労様です!」周囲にいた方が驚く。決して、そういう筋の方ではないが、パンチパーマをかけたその方は、見るからに・・・

この方との出逢いが、
またまたワタシの人生の方向性を大きく変える事になった。

続く