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壁の向こう側

 中学1年生の沙里はその一瞬で恋に落ちた。それは夏の夜、友達4人でチケットをもらって観に来た満員の観客で赤く染まるスタジアムだった。バックスタンド、1番前で見ていた彼女の前を颯爽とサイドラインに沿うようにして駆け抜ける一人の選手に目を奪われた。その、ボールが来るか分からないのに、全速力でゴール方向に向かって走っていく姿が途方もなくかっこよくて、今までに感じたことが無いくらい彼女の胸はドキドキしていた。それから試合終了のホイッスルが鳴るまで(70分くらいはあったと思う)沙里は彼からずっと目が離せなかった。パスが来ないかもしれないのに、必死に走り、味方がボールを奪われると誰にも知られずダッシュで自陣まで走るその姿を、試合がちょっと中断しているときにペットボトルの水を浴びるように飲む姿を、ただただ見ていた。そして帰りに、スタジアムの売店で彼の背番号の入ったキーホルダーを買った。それを家の鍵のキーホルダーに付けて、ポケットの中でギュッと握ると、自分まで颯爽とどこまでも駆けていけるような気がした。

 その初恋から5年、沙里はずっとその選手を追いかけてた。その選手のグッズを買い、その選手のポストカードやカードを集め、新聞を切り抜き、練習場に通った。初めてサインをもらったときは、緊張で手が震えた。練習場に通ううち「ファンに塩対応」と言われていたその選手が、沙里が練習場の駐車場を少し出た先で待っていると車を停めてくれるようになった。少しだけ会話できるようにもなった。本当に好きだったのだ。彼がシュートを決め満面の笑みを浮かべれば全ての嫌なことが吹き飛ぶような気がしたし、彼がPKを外しグラウンドに座り込んでしまった時、心臓がえぐられるように痛かった。彼女は、彼の何を知っているわけじゃないかもしれない。でもこれは本気だと、本気の恋だと思っていた。スタジアムで「おいおい!ちんたらやってんじゃねーよ!走れよ!ふざけんなよ!」と彼を野次って怒鳴った酔っぱらったサポーターに向かって「お前がふざけんなよ!お前走れんのかよ!応援する気ねぇーなら帰れよ!」と力も体格も敵わないであろう男に、女子高生の彼女が喰ってかかったこともあった。ただ、彼女とサッカー選手の彼の間にはいつも高い壁があった。練習場にはフェンスがあったし、会話も車の窓ごしだし、スタジアムで観る彼はすごく遠い。そして、なにより選手とファンという厚く高い壁が。

 「いやいやいや!それは恋の括りに入れちゃだめでしょー」と高校の同級生の友達は言った。でもさ、まともに喋ったことのない隣の高校のサッカー部のキャプテンに恋してる子いるじゃん、毎日電車で一緒にひとに一目惚れすることもあるじゃん。なんで、サッカー選手に恋した場合は恋認定してもらえないんだろ、と沙里は本気で思っていた。

 そんな恋していた彼女も、時が経ち、当然だがその選手とは別の人と結婚して子どもを持った。子育てしながら、アパレルメーカーでデザイナーとして働いていたそんなある日、信じられない仕事が舞い込んできた。ずっと好きだった選手の500試合出場を記念したTシャツのデザインの仕事だった。彼女は、ファンと選手、その壁の向こう側に行ける気がした。今回はファンとして会うのではないのだから。取引先の人間として会うのだから、と。そして打ち合わせは、ずっと憧れだったクラブハウスの中で行われた。ファンは入ってはいけないとされていた高い高い壁であったラインを、彼女はメーカーの上司の案内で、いとも簡単に、あっという間に越えた。クラブハウスには、練習終わりのあのずっとずっと好きだった選手が居た。彼は「どうも、この度はわざわざお越しいただいてありがとうございます」と、丁寧にお辞儀をした。正直何を喋っていたのか、沙里は全く覚えていなかった。打ち合わせのためのノートもほとんど白紙だった。全てが夢の中の出来事のようだった。上司が沙里のことを「昔から本当にあなたのファンで、ここにも通っていたらしいんですよ」と紹介した。「いやー、すみません、覚えてなくて」という選手に沙里が「いえいえ!覚えてなくて当然ですし、万が一当時渡した手紙なんて出てきたら恥ずかしくてこの場で飛び降ります」と言うと、あの死ぬほど大好きだった笑顔で選手は「ははは」と笑った。そして打ち合わせが終わり、駅からタクシーできた沙里たちに、選手が自分の車で駅まで送ってくれると言った。上司が気を使ってくれ、沙里は助手席に座ることになった。あの、練習場の先でサインをもらったり差し入れを渡したりしていた車の窓の向こう側に行ったのだ。沙里の仕事の話や、選手の高校時代の話など、気さくに話しかけてくれた駅までの道のりは本当に一瞬だった。その短い間も沙里の頭の中は、今まで20年近くファンだった思い出が走馬灯のようにめぐっていた。

 沙里は思った。沙里が越えたと思っていた選手とファンの壁の向こう側には、選手と仕事関係の人の壁があった。越えても越えてもきっと壁はある。それから越えない方が良い壁があるとも。そして沙里は「最高の仕事をしよう」そう決意して、駅から走り去っていく選手の車を見送っていた。最高の仕事をするーそれはその壁の向こう側に行くためじゃない、高い壁があっても壁のこちら側をずっと熱狂させてくれたことへの感謝だ。


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 今回は小説形式でお送りしてみました、noteサークルのお題。今回のお題は「壁の向こう側」でした。実はずっと今回書いた内容で何か書きたいと思っていたので、良いタイミングでお題がきました。これはフェイクを入れた半分ノンフィクションです(笑)どこまでがフィクションでどこがノンフィクションかは想像にお任せします!

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