見出し画像

超鑑賞術「プペル批評」いち映画としてプペルを観る。まだピクサーのなり損ないレベルか。

西野の物語という視点を省いた映画としての講評を書いてみる。


良かった点は絵と世界観とキャスト

画像1

・世界観に合った映像美と違和感のない動き(人間の演技はところどころギクシャクした感じはあったが)
・独自の世界設定
・本業ではない声優だが一人もミスキャスト感はなかった

悪かった点は冒頭の構成

・最初の15分で面白いと思わせたり心をつかみたい狙いだったんだろうが、準備足りなさすぎ、やりすぎ。

< 冒頭からの流れと観てる側の気持ち >

煙に覆われた町で夢物語の紙芝居をする男

ゴミ人間らしきものが生まれる(おお、なかなか迫力ある映像だ)


突然、町中でカラフルなモンスターのダンス(ん?こういう連中の生きる世界観か?結構長いな)


そこに加わりセンターで踊るゴミ人間(ふーん楽しそうじゃん)


カラフルなモンスターたちは実はハロウィンの子供たちの仮装(あ、そういうことね)


ゴミ人間だけホンモノのゴミの生命体であることに気付き町人ビビる
「やだ!こんなのとつるんでたら異端審問官に目を付けられちゃうわあっち行って!」
(え?センターで踊ってたけど仲間じゃなかったの?異端・・何?)


異端審問官から逃げるゴミ人間。何故か逃亡に協力するモブっぽくない女。しかし隠れたダストボックスの回収に来たゴミ収集車にゴミごと引き取られてしまう(あの女はゆくゆく仲間になりそうだ)


ハロウィンにも参加せず仕事をするルビッチ登場。
親には友達とハロウィンで遊んでくると言ってるが大人に混じって仕事に来ている。
会話からルビッチには友達がいないことがわかる。

「助けて~」とゴミ収集車からゴミ人間の声が聞こえ、突然救出に向かうルビッチ(ゴミ収集車のデザイン良いな)

ゲームみたいに建物を横から見た図でルビッチが下に下に進むコミカルな映像と「助けて~」と叫ぶゴミ人間を積んで爆走するゴミ収集車の緊迫した映像が何度も切り替わり繰り返される。その度にBGMもゆったり感とハラハラ感で切り替わる(ここ笑うところなのか・・?繰り返しクドイな)

ゴミ収集車に追いつくルビッチ。そこで人ではなくゴミ人間だと気付きビビる。
しかしそうこうしてるとゴミ処理場に到着し溶鉱炉みたいなところにゴミと一緒に投入されそうになる!
必死で逃げようとする二人。しかし協力する姿勢はなく、ゴミ人間が足を引っ張りさらなるピンチに!
間一髪で助かりリズミカルにハイタッチする二人。しかし安心したのも束の間、鉄球がブーンと謎の方向から
やってきて二人を吹っ飛ばし外に弾き飛ばされる。(トイストーリーかなんかでこんなゴミ処理場からの脱出シーン見た気がするな・・)


外に吹っ飛ばされた二人は帰ろうとするが、ルビッチのミスでトロッコが発進。制御不能で暴走するトロッコがまるでジェットコースターのように鉱山を突き進み、途中でレールが破損し片方しかないところは二人が体重をかけてトロッコを傾けてなんとか進み、二人の掛け合いやワーワー絶叫するハラハラドキドキシーンが続く(まるでディズニーランドのアトラクションに乗ってる気分だ)

トロッコがコウモリの群れを突き進んだ際、1匹だけトロッコに残っている。
そしてトロッコを降りた後も二人のあとを当たり前の様についてくる
(こいつも仲間になるのか?どうせならゴミ人間のゴミの中に入ってしまってて、あとでひょっこり出てきて気づいた時にはもう群れからもはぐれてるし何かゴミ人間に懐いちゃってるし、一緒に冒険するか、みたいな流れの方が良くないか?だってまだ群れに追いつける距離だし、野生のコウモリが二人についてくる理由がない)


ルビッチがゴミ人間をプペルと名付け「友達になってください!」と急にお願い。
親に友達と遊ぶと言った手前、一人では帰れないからという理由(なんだ、協力して九死に一生を得て友情が芽生えたわけじゃないのか・・「彼氏のフリして」と頼んだことから始まる少女漫画かよ)

道に迷った鉱山泥棒登場。ペラペラお喋りな奴で後半への伏線を散りばめる。
コウモリの超音波能力、鉱山泥棒の多彩なスキルを駆使し3人+1匹で脱出を試み鉱山泥棒とも友情が芽生える!・・かと思いきや難なく脱出し帰宅。


これが冒頭パートの流れ。
必要な登場人物が出揃い、プペルとも友達になり、さあ物語の始まりだ。


< コンサル的構成添削〜こうしてたらワンランク上の作品になれた!〜 >


最初、ゴミ溜めから何かの生物が誕生したシーンにはアニメならではの迫力があり、ただごとでない映画であることは十分に伝わった。
しかしそこからあの町の世界観とルビッチはどういう人間なのかを丁寧に描いていくパートに入らないと全く感情移入できない。


まず突然のモンスターたちのダンス。なんだこれは?
ラ・ラ・ランドはミュージカルなのでいきなり渋滞の最中踊りが始まるのも意味が通じるし印象的かつ面白いシーンで、掴みとしては抜群だった。


しかしプペルはそういう作品ではないはずだし、ダンスシーンの意味は無い。それ以降とくに踊ることもないし。


そもそもいきなり出てきたモンスターたちに対し情報ゼロのこっちは「え?あんた達だれ?お前らのことも覚えておかないといけないの?こういうのが暮らしてる世界観なの?重要キャラなの?主人公どこ?」と観てる側に余計な思考や緊張を強いるだけで、映像の見栄え以外に何の意味もない。

であればまだモンスターの格好をした子供たちが
「よーし今年のハロウィンもたくさんお菓子を集められたな!」
「私が1番よ!」「いいや僕だ!」「まあ後で数えるとして、今は踊ろう!」
(ティムバートン風のBGMが流れダンスシーンへ)

と観客に「ああハロウィンで仮装してる楽しい夜なのね」とわからせた上で、その輪に入れないルビッチの悲しそうな顔を見せて

「あ、主人公は友達が欲しいけどなんか混じれないんだな」

とわからせるかしないとあのダンスシーンの機能は何もない。圧巻のパフォーマンスとかいうレベルでもない、ただただ踊ってるだけのシーン。


あんなもん入れる暇あるなら、記憶も何もない自分が誰かもわからないプペルと友達のいないルビッチが仲良くなるきっかけとしてゴミ人間ともそこで出会わせておくべき。
その後、仕事に出掛けた先でプペルがゴミとして回収されてしまったのを目撃し、助けるために奮闘する。

そういう「ルビッチが救出に頑張る理由」をつけないと、出てきて数分で正義感溢れるキャラと言うわけでもないどんな人物かもわからない主人公がいきなりゴミ人間を助けに行く動機がなく、感情移入できない。


死ぬかもしれないハラハラシーンをただ見せれば人はドキドキするのではない。

「こいつには助かって欲しい!死んでほしくない!」「もうちょっとだ、頑張れ!」と応援する気持ちがあるからこそ、作り物とわかっている物語に人は興奮したり感動できる。



お互いの境遇に共感したとか、星を見る夢を共有したとか、何か二人を結び付けるものでもないとゴミ人間を救出に行く冒頭のシーンはただの「こういうアクションシーン入れておけば楽しいでしょ」という意味以外なく、むしろ主人公があそこまで頑張ることに感情移入が出来ず違和感すら覚えるのでそれすらロクに機能しない。

まだ高所作業で危険なえんとつ掃除人としておせっかいにみんなを助ける人、とかいう描写でもあれば納得できるが、プペルを助けに行ったような誰かのために無償で命を懸けるような勇猛果敢なシーンは別に他にはない。


プペルをせっかく何も世界のことを知らない存在=観客目線、として使えるのにただの記憶もなにもない順応な奴としか使っていないのも勿体ない。

プペル「この町はえんとつが多いですねえ。工場で何を作ってるんですか?」
ルビッチ「よくわからないけど、この町はえんとつだらけなんだ。えんとつ掃除の仕事は給料が良いからうちの親方も何の工場かわかってないけどずっと仕事に困らない。でもえんとつが多いせいでいつも空は煙で覆われていて
病気になる人も多いんだ」

みたいな、大人すら誰も何のためにえんとつが多いか知らないの?おかしくない?と観客の脳裏に前フリしておくか

「この町の大事なもの「〇〇」を作ってるんだ。みんなこの〇〇作りに誇りを持ってるし、僕たちえんとつ掃除人もこの町の発展に貢献してるのさ」みたいな設定で

でも実はその〇〇には何の意味もない、ただただ煙を排出させるためだけに意味もないことをみんなでやらされてたことが明らかになり、誇りを持ってやってきた町人は裏切られた気持ちになり暴動→異端諮問官と戦い自分たちで自治権を持つことに目覚める!みたいな流れにするか。

実はえんとつだらけなのにはこんな理由が、と明らかにする前に観客にハッとさせる仕掛けをしとかないと

「ふーん、そんな歴史があったんだ」と思うだけ。

ルビッチをバカにしてた町人が星を見た(自分たちが騙されていたことに気付いた)だけで開国の道を選ぶことに繋がるのは短絡的すぎる気も。
あいつらは空気が悪いせいで起きる病気以外は特に不自由してなかったんだし。

あと1匹だけルビッチたちについてきてたコウモリ。鉱山出たらもういない。何だったんだアイツは!!
テクテク歩いてずっとついてきてたのに、何事も無かったかのように消えている。


人間のフィルターがかかった目では見えないプペルの心の温かさにコウモリは魅かれたとか、登場人物を深堀するわけでもない、意味不明なコウモリがついてくる演出。あれダンスと一緒にカットして良いだろ。


異端審問官にマークされてるはずのルビッチの家にプペルが来ても騒動にもならないし
主人公に都合よく仕事に抜けがあるのは管理社会の恐怖を削ぎこれから戦う相手をマヌケにしてしまう。
法大前にしょっちゅう活動家を見張りに来ていた公安を見習って欲しい。

こいつらがルビッチの父親を消した疑惑があるが、殺したのかどうかよくわからない。
邪魔者は消す、というプロフェッショナルでありながらそれをルビッチの母親にばらすし、
こいつらそこまで怖くないんじゃ?


実はプペルはこの死んだ父親の魂で動いてたみたいな雰囲気が明かされるが、しっかりとした説明はない。

父親のブレスレットが脳の位置にあるし、たまに父親っぽい感じを出すしでルビッチは「父さん!」といきなり確信するが、ええ・・?という感じ。


このプペルと一緒に家族3人で仲良く暮らしましたとさ、とはならず、星を見る夢が叶うとプペルの心臓がヒュー――ンと突然空に飛んでいきバラバラになる。何で??


父親が異端審問官に殺される直前「俺は、息子に星を見せるんだ・・!お前らなんかに負けねえ!」みたいなこと言いながら殺された執念がブチャラティみたいに死んでるのにプペルという入れ物に命が宿って息子を助け、夢を叶えたから成仏する、みたいな親の愛の力ってわけでもない。


何でゴミ人間が生まれたのか、いくら
ファンタジーの世界観でも説明は欲しい。何で心臓が空に飛んでったのか、何であのタイミングなのか、
「はあ?」って感じだ。

エンディング前のまるで父親の様に立派でたくましくなったルビッチを見るに「もう父親代わりは必要ない」というルビッチの成長を描いたつもりか知らんが、まあ慌ただしく終わったな、という印象でしかない。


解釈は観客に委ねますよ、というには乱暴すぎるので考察する素材をもっと置いておかないと思考のパズルとして成立しない。


異端審問官のトップがことあるごとに「もう隠すのはやめよう」とか主人公側にいきそうな言動をするキャラなのが何を表しているのか?
大臣みたいな奴は完全に煙で隠す管理社会の絶対的支配者であり悪側(芸能界)だが、このトップは誰なのか?


西野の活動を最後には認め、西野の作ったビジネスモデル(芸人が自力で見つけてきた営業の仕事を受けて良い代わりに吉本に手数料が入る。吉本は何もしなくても金が入るし、芸人は吉本に縛られずに仕事を取って来れるwinwinな仕組み)を導入したりという吉本の上層部か、さんまのようにYouTubeに理解はあるものの古いメディアに恩があるから自分は出られない、というスタンスの大御所芸人か。副音声聞けば何かわかるのだろうか。



俺は西野の活動の歴史であり界隈の人間相関図でもあるとこの映画の構造を見た(でないと、星はあると言っただけであれだけキレられる意味がわからない)が、西野信者と呼ばれる人たちはどんな見方をしたのか?
「あーこれって私たちのことじゃん!」なのか
シンプルに「夢を見るって大切!私もルビッチから元気を貰えました!」という感想なのか。

信者はこの映画をこう観ている!となにか知ってる人、もしくは信者本人、ぜひ教えてほしい。

<西野はプペルを作る前にこれを観よ!のコーナー「FREEDOM」「王立宇宙軍」>


カップヌードルのCMにもなった
「FREEDOM」プロジェクト
その中心であるアニメも、真実を隠そうとする管理社会と戦うお話。
宇多田ヒカルのOPと前半までは面白いのでおすすめだ。

月の管理社会EDENで生きる少年たちが、滅んだと教わっていた地球がまだ死んでおらず
そこで生きている人類がいることにある日偶然気付く。なぜEDENは真実を隠すのか?何故自分たちの先祖は
月に移住したのか?ガチガチに管理されたEDENは何が目的なのか?
管理された人類の謎、地球に本当に人類は生きているのか?それをこの目で見たい!だから俺は、このEDENを出て地球に行く!!


これを学生時代に観ていたので、プペルのCMでよく見たトロッコで爆走してるシーンはえんとつ町から脱出するシーンかと思っていた。
まさか特に意味もないアクションシーンだったとは…。


FREEDOMで主人公が月を脱出するシーン、当然EDENの管理局に追われることになるがなぜ主人公は地球に行きたいのか、それはどれだけ大変なことか、それを実行するためにどれだけのことをしてきたか、がちゃんと描かれているのでこちらも感情移入して応援したくなる。

この脱出する回のDVDだけ観せた大学の後輩も
「やばい!追いつかれる!頑張れ!お前らなら行ける!!」と声を出して応援して観ていた。1話目から観てるわけでもないので、主人公がなぜそこまでして地球に行きたいのかはよく分かっていないにも関わらずだ。

プペルはこういうシーンを描きたい、というだけでなく、それを効果的に描くためには何が必要か、とひとつひとつの描写の作り込みをしないとジブリにもピクサーにも勝てない。空に向かって出発するシーンもそんなにハラハラしないのは、そこまでの過程が浅いからだ。飛び立つシーンまでの持っていき方は「王立宇宙軍」を3回観て作ると感動的な構成の勉強になるだろう。

前半のおちゃらけた雰囲気と打って変わりシリアスなクライマックスの緩急がより感情を高める。


プペルはどんな作り方をしたのだろう?
素材は良いのに料理の仕方が今ひとつという印象。

<圧倒的な作品を作るならばピクサーの作り方か宮崎駿の作り方か>


ピクサーは優秀なスタッフが集まって出来たところまで観てみんなで意見出し合って改善して、また出来たところまで観て意見出し合って改善して、の繰り返しでブラッシュアップを重ね、高品質な作品を量産している。
しかしこれには優秀なスタッフの頭数も、時間も、金もかかるので、なかなか真似しようと思っても出来ない。
しかしこれをやっているところが日本にあるという。
それがジブリ。というか宮崎駿。


画像2


宮崎駿の脳内で、このピクサーの合議システムのようなことをしてるので、まあ天才が作ったものを
天才が自分で品質チェックしてるので、そりゃディズニー作品より製作費も抑えてあんな面白いものが出来るわ、という話らしい。


宮崎駿作品とプペルの大きな違い



作者の言いたいことを作品のどの階層に潜ませているかの部分だと思う。
宮崎駿の作品は、まずキャラが良い。

信念持ってるし、次に何やらかすか読めないし、ピンチにもへこたれないし、強いし、応援したくなる。その世界に生きる人々もみな生き生きとしていて気持ちが良い。
そしてストーリーも良い。主人公の目的、成長、テーマがしっかり描かれ、笑いやアクションも満足。

最初の15分観れば展開が読める作品が多い中、宮崎作品は全く先が読めずラスト15分前でもどう終わるのかわからない。

良いキャラ(上階層)

良いストーリー(中階層)

そしてその下の最下層に「作者の言いたいこと」がある。

自然は大切にしようとか、子供は外で遊ぼう、とか。しかしそれはあくまで作品を観終わったあとの余韻として観客が感じ取ることであって、決してキャラ自身が「愚かな人間どもよ、自然を大事に!」などと
ストレートな説教は言わないのだ。(うろ覚えだが、もののけ姫やナウシカで言ってない・・よね?)




逆に説教が前面に出てきてしまう高畑作品がいまいちエンタメとして一流になれないのはそのせい。宮崎駿作品はキャラ、ストーリーがしっかりエンタメしてるので何度でも楽しく観られるが、高畑作品を何度も観る気になれないのは、いつも同じ話して説教してくる面倒な親戚のおじさんに会うような気分で再生ボタンを押す気が起きない。


プペルは

キャラ+作者の言いたいこと(上階層)
ストーリー+作者の言いたいこと(中階層)
作者のドヤ顔(最下層)


と満遍なく作者の主張が出る構成になっており、なのでキャラも
西野の言いたいことをそのまんまセリフとして口に出す。

説教おじさんまでは行かないが、意識高い系夢追いおにいさんくらいと
お話する程度には耳が疲れる。

言いたいことをドカンと山盛りにするのでなく、あくまでスパイス程度にしておかないと
エンタメ映画でなく教祖の説法映像になってしまう。

しかしその言いたいことのみを逆に突き詰めて作品を作るとパトレイバー2のように
おっさんがずっと喋ってるだけなのに何故か面白い、という快作が生まれる。


画像3



押井守がすごいのは、オリジナル作品でなくパトレイバーの劇場版を作ったらああなったという我の表れ。並みの感覚では出来ない。なので主張を爆発させるという作り方は必ずしも悪くはない。プペルを最後まで観られたのも「西野の魂」の力によるものが大きい。
どうせならもっと思いっきり西野イズムを反映させた映画の方が、ピクサーのなり損ねみたいな無難な映画を作るよりまだ記憶に残って周りに勧められたかもしれない。

そういえば押井守がパトレイバーを作る時、資料としてゴミ処理場を撮っておきたいが内部に入る許可が出ないのでアニメ雑誌の企画として「現代のゴミ問題の取材をしたい」と夢の島に申請したら無事に通って内部に入れたという話を思い出した。
「なんでアニメ雑誌でそんな特集を??」と夢の島は疑問に思わなかったのだろうかと思うが、一応取材したので本当にアニメ雑誌なのにゴミ問題の特集も載せてアリバイを作ったという逸話も含めて、作り手の意地を感じて面白い。

プペルはどれくらいの執念を込めて作られたのだろうか?
あの横スクロールのゲーム画面みたいになって降りていくシーンとか、ダンスとか見るに、どうしてもこれを描きたい!という意地というよりは、大衆娯楽ってこんな感じでしょ、という程度の意識が透けて見えてしまう。

いいや、あのダンスにはこんな深いメッセージがあるんだ!という意見があればぜひこれもコメントをお願いしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?