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人生ってもっとフラットでいいのかもしれない

コンビニの店員さんが無言でお釣りの小銭を放り投げてバックヤードに戻って行ったり、駐車場の隣に並んだ車の助手席に運転席が見えないくらいのゴミが積み上がっていたり、本来の自分であればどことなく薄暗い気持ちになりそうな事が、今日は単純に「自由でいいなあ」と思った。
私は自分の人生の意味ってなんだろうと考えたり、こうするべき、こうあるべきという思考が強い。人には親切にするべき、暗い顔を見せてはいけない、誰に対しても不快感を与えないよう生きる、部屋を綺麗に保つ、プラス思考で生きる。
それら全てが難しいことばかりなのに、上手く生きられない自分がずっと苦しかった。でも本来人生ってもっとフラットでいいのかもしれない。辛い時は辛いと言って良いし、いつも笑ってなくていいし、部屋が汚くてもそれでもいいのかもしれない。自分の事を”出来るやつ”だと過大評価していたのかもしれないなと、改めて思った。人は案外誰のことも見ていない。ずっと自分を見つめている。

通院後に寄ったパン屋さんには、時間帯が時間帯だったから残ってるパンが少なかった。少し悩んだけど、せっかくだから普段買わない物を購入してみた。
いつもはクリームとフルーツがたっぷり入った物を選びがちだから、売れ残っていたかぼちゃパンを手に取った。お値段100円。安い。
公園で、光と風を浴びて1口齧る。小麦とバターの素朴な甘さにかぼちゃの優しい舌触りがなんだか嬉しかった。


誰も居ない舞台では思い出が踊ってて可愛い。
外の空気ってこんなに気持ちいいんだなと、久しぶりにどこかスッキリした気持ちでぼんやりと街の景色を眺める。休んでいる自分はとても悪い人間だと思っていたけど、案外公園にはのんびりと休んでる人がちらほら居て、パソコンを持って仕事をしている人もいた。
同じ人間なのに、全部同じじゃない事が不思議だ。こうしなければならない、ああしなければならないという固定概念は案外、ポケットにしまって見ないふりをして、たまに取り出すくらいがちょうどいいのかもしれない。
仕事をしている時には見れなかった景色が見れるのは特別なことで、巡り会えなかった思考に挨拶程度だが、久しぶりに会う事が出来た。忘れていた。それを思い出す為に必要な休息だったと自分を肯定出来た今日は、人生最後にきっと思い出す事が出来る程に良い日だったと、信じたい。忘れないようにしたいと思った。


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