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In Case You Need Deep Love

2017年8月27日 記す

若い頃よく聞いた曲のタイトルだけど、in case〜というイディオムの一番良い例文だと思う。

年老いていく祖父母を見て、母が思い立って家族温泉旅行を企画した。祖父母と、長女である母と私、次女である伯母の家族である。祖父母はもともと国内旅行好きだが、祖父が背中を痛めて運転がままならなくなり、外出の頻度はかなり減ってきた。

祖父母宅から県内の温泉旅館へ一泊しに行くのだが、とにかく体の不自由な人がいて地方で出歩くには、車がないと話にならない。完全なペーパードライバーの私は自分の無力さを思い知った。ひとりで暮らしてると何でもできる気になるが、ただ自分のやりたいことをやってるだけで、そう言えば「ちゃんと生活できている」と誰に認められているわけでもないのだった。

久しぶりに家族が揃って生活してみると、それぞれに凸凹があり、興味やできることがバラバラで、そのおかげで乗り切れることと、うまくいかないことがあることがわかった。テレビっ子で料理好きの姪の口からは、私の知らないバラエティー番組の名や私が作ったことのない料理(麻婆豆腐とかw)の話がすらすら出てきて(若者の話すテンポは速い)、相槌を打つのがやっとだった。それでも私たちは家族だ。このメンバーでなんとかやっていくのだ。少なくともそう思えるメンバーを持った幸せを感じるし、一方で助け合いは実は美しくもなく、ただ必要でそこにあるものだ。
今回の旅で、自分が普段どれだけ意味や理由を求めて生きているかがわかった。家族に理由はない。姻族として誰を選ぶかは自分にかかっているけど、それは血縁のランダムさに混じれば誤差くらいなものだ。

私にはきょうだいがいないが、親友があるとき自分のきょうだいについてこう言っていた。 「きょうだいとして生まれなかったら、絶対に出会わなかったぐらい性格や好みが違う。」 それでも家族の中にいたから、自分と全く違う人が存在することを認識して育ってこれて、面白かったねと姉妹で話したことがあると。

別の友人はこう言った。 「東京は面白い街だけど、みんなpickyすぎて、なんか違う。」 彼女は日本語でぴったりの表現が見つからないんだけど、と前置きしたが、要するにpickyは選り好みしがちということだろう。選択が常に要求され、その結果がアイデンティティと認識されてしまう世界では、選択には理由が必要だ。

家族は違う。選ばない。でも結婚相手はどうだろう。もし夫になる人をひとり選んだとして、理由はなんとなく、と言ったら笑われたり怒られるだろう。じゃあどうやって選んだらいいのか?誰も教えてはくれない。少なくともいま私の周りにいる友人や知人は、理由が必要だと思ってる人ばかりに見える。ただしその友人たちだって、なぜ私の周りにいるかと言えば、なんとなく、不思議なご縁がいい感じで、としか説明できないのであった。

もし深く愛する必要が出てきたとき。あなたはどうしますか。必然性なんて、もう脱ぎ捨てませんか。

サポートするとあなたに何かいいことが起こります。