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どうやって人生に余白をとりもどすかを考えている話

余白の作り方が秀逸、と褒められたことがある。
むかしむかし、約15年ほど、基本的に「続けられない」わたしが、人生で一番ながーく続けた書道のことです。

もう、今のわたしに過去の書道ガールだった面影はないけれど、楽しく書いたら上手くなっていく、上手くなったら好きなものがたくさん書けた時間は楽しかった。あの頃って暇だったのだなーとぼんやり思ったりする。学校への不満も、その先の将来への希望も、あらゆることがエネルギーになっていたし、それをぶつけた先は墨と紙で、非常に気持ちよかった。今の私はたぶんそれが書けない。スキルもそうだけど、気持ち的にも。

今年。夏になって、エネルギーが湧いてこなくて困っている。ぼんやりと、ふつふつと、とある疑問が頭から離れず、このままではヤバそうだ、という言葉に出来ない危機と1人で勝手に戦っていた。周りの力を借りて、それを今言語化しながら、前に進もうとし始めたところ。

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世の中の事業では、ボランティアが参画をすることが前提の「活動」がたくさんある。NPO、地域活動、それに限らず商業的なものにもあったりする。

一方で、世の中の人は忙しい。多忙に多忙を極めている。

例えば。フリーランスとして、1人で稼ぎ生きていくことが、昔よりしやすくなった時代なのかもしれないけれど、それはみんながみんなできるわけではない。結局都合よく使われて、自分の時間に自分自身がイニシアチブを取れないまま日が過ぎていく。そうしていくうちに体を壊していく同世代もちらほらと見た。フリーランスって夢あふれるなと昔々の自分は思っていたけど、アラサーになり、もはや会社勤めの友人のほうが、なんだか悠々自適な人生を送っているようにすら見えてくる。

例えば。共働きで近くに親もいない中、家に帰れば家事労働が待っている。仕事に限らず家族の将来を考えると、他にやりたいことはあるのに、仕事のことで頭が一杯だ。無理をして時間をこじ開け、休むときに休めないまま、また仕事の日々がやって来る。こんなに目の前のことに必死になっていると、2人目の子どもを授かるなんて、全然現実的じゃない。ましてや、初子すら怪しい、という人も多いような気がしている。

なんてのは妄想だけど、似たような人、いるんじゃない、という兆しをたまに見る。

そんな中、例えばNPOなどが行う非営利活動(企業が行っていることもある)は、そうした終われる日々に翻弄される人々にとって、非日常感を与えてくれる、新しい居場所としても機能している側面があると思う。ボランティアとしてNPOなどに参加する人も、自分の新しい拠り所としてその活動とコミュニティとして無意識的に捉えている人は多いのではないかなと思ったりする。

ただ、その活動ないしコミュニティが目指していきたい社会的価値に対し、そのボランティアメンバーがどこまで貢献できるのかという点では、「日常が忙しくて、ここに時間を多くは割けない」という状況だったりする。「たくさんの貢献を求められるのはしんどい、できる範囲でゆるゆるやりたい」って感じだろうか。

一方で、ちょこっと関与しただけで社会課題解決や価値創出にはつながらない。長い長い時間が必要だったりする。事業の中で稼ぎを生み出せない市場の失敗領域だからこそ、人海戦術で色んな人を巻き込んでいき、時間をかけて活動を育てていく、という流れになるのだろうけど、人間生活に余裕のない現代において、とりあえず人を集めりゃコトが進むわけでもない。人が集まっても、時間が割けられないという現状だ。

時間も割けないので、あらゆるところに余裕がない事業やプロジェクトとなると、新しい人をまた探し、活動に慣れていってもらう、というプロセスを用意する。そしてそのプロセスに思った以上にコストがかかっていく。しかもだいたいそういうプロジェクトって、担当者が少ないので、その数人(なんなら1人)が頑張るほかなかったりするものだったりする。

ボランティアに頼ることを前提とした活動には、ボランティアそのものを違う形に変えるか、限界を見極めるか、という未来ばかりがよぎってきた。


地域の活動だって、ボランティア活動に変わりない。でもって、朝早くから遅い時間まで働く人が多い中、地域の町会の集まりに参加できるわけでもなければ、貢献する余裕なんてなかったりする。だけど、行政の広報誌何かを見ていると、どんどん「地域」の活動では「ボランティア」が前提の活動が増えている。世の中は、宛もなく「ボランティア」を探している。そしてこういう話について、ちきりんさんもブログを書いていたのだけど、激しく頷きながら読んだ。(こうやって上手にまとめられれば…)

奉仕の心で社会を維持するのだー!
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20170804

じゃあ有給で職員をもっと雇えば、という単純な話でもない。NPOで職員が何十人もいるNPOも増えてきたけれど決して多くはない。そしてそういうところで働いていても、現実的にお金のことで漠然と不安を持っている人だっていたりする。結婚できるかな、このまま子どもを産み育てられるのだろうか―それでいいんだっけ。加えて、最近はある非営利団体が、ボランティアで成り立たせていた学習支援の活動において、労働基準監督署から指導を受けたというSNS投稿も見かけた。ボランティアは好きな時間に好きな時間に帰ることが前提で、決まった時間にボランティアに来てもらうのであれば時給を払わないといけない、という趣旨だったと思う。

だったらどうしろというのだ…八方塞がりか!四面楚歌か!と心の叫びは止まらない。


1年ほど前、ある地域の方に「地域の拠り所となる空間、場を、いつか作りたいなと思っているんです」なんて雑談の延長で話をしたことがあった。そのときに言われたのは、「まず地域の活動に、町会に、ボランティアで参加することだ。話はそこからだ」という趣旨のことを言われた(※ちなみにすごく優しく言われてるよ)。でも、働き方が多様な中で、みんながみんな関わるのは正直無理じゃないですか?という質問をさらにさせていただいたら、「町会を市民がボランティアで維持するのは区から言われていること」「自営業は自分が休めば売上に直結するけど、お勤め人は休んでも売上が大きく影響しないのだから努力してほしい」という、諦めと圧を感じさせるような答えをくださった(その方は個人経営をされている自営業だった)。

確かに自分の仕事に余裕があれば、プライベートにまだ余裕があれば、それを心置きなくできるだろうけど、申し訳ないけど今の私には無理だ。そしてたぶん多くの人に無理だ。

いやいや、あなたの知恵が、努力が、足りないからでは?もっと自分の団体のことを心配したら?w という声も聞こえてきそうだけど、私のことはさておき、周りの団体でも内情は厳しそうだなぁという団体やチーム、プロジェクトの話は見聞きする。重要だと思うのはそこに「課題の小さな兆し」が見えるってことなので、それが正しいのであれば、その傷口がもっと広がらないようにせねば、って考えているのだ。

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と、つらつらとまとめてみたが、余裕のない中で、ボランティアが前提な活動を増やしても、せっかく良いことをしたくても、余裕のないことばかりだ。余裕が無いので生活もバタつき、家庭のことに目を向けたくても、人生は過ぎ去っていく。実際に周りは若くして体を壊している人が続出している。この調子で30,40代になっていくとしたら…やばくないか?大げさかもしれないが、私自身はその不安をいだいていたことに、つい最近気付いた。

とすると、NPOなどの非営利活動に、なんとしてでも人に関わってもらい、金銭やそれ以外のメリットがあったとしても、結局その人の何かしらの余裕の余白が少なかったら、そのメリットは残念ながらその余白を広げるエネルギーにはなりえない。堂々巡りだなぁとぼんやり考えてる。

なので、「どうやって人生に余白をとりもどすかを考えている」最近。

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たぶん、もう「ボランティア」という関わり方の既存イメージやその形は変えていかないといけないだろうし、NPOとしての形にもこだわる必要がない(法律を遵守しながら、その範囲の中でいろんなあり方を模索する)。1つ大事かなとおもっていることは、余白が生まれる営みをつくる「仕組み」を生み出すことだなと思っている。もちろん、金銭的にも疲弊せず、自分の時間を大切にできるような、そういうやつだ。

そのための答えを探すべく動き始めたところで、まずは小さな実験をはじめていくことにしました。ひとまず19日にフィールドワークを友人と実施予定。また気が向いたら報告します。

人に頼れない性格なので、これを文字にするだけで結構ためらいながら画面に向かっていましたが(むかしブログめっちゃ書いてた自分はどこへやら、って感じだけど)、毎日何かアクションをするために、日々の試行錯誤をときどき発信してみたいと思います。


(追記:余白というそれは、今は私のなかに実感はないです。カネなのか、時間なのか、両方がなくて乾いた心なのか。たぶん個々に塩梅が違う人が、たくさんいるのだろうという想像を働かせているところ。)

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