メモ

VTuber題材小説におけるコメントストリーム描写の不自然さ、平田オリザ言うところの会話描写の不自然さ(家族の会話なのに「そういえばお父さんの職業って…」みたいな)とはまた条件がおそらく違ってて、コメントストリームなりの自然さというのは検討する余地があるのかも

コメントストリーム内の応答やボケとツッコミみたいなのを、小説では流れや分かりやすさのためにたびたび一対一で併置していて、しかし現実のストリームでは間に無関係のコメントが挟まったり、一対多だったりそもそも拾われなかったりする。それらをある意味で切り取り・省略・編集している。

しかし漫画が線を省略し、映画がフィルムを切り取り、物語がシーンを編集するように、会話あるいはコメントストリーム「自体」に対してそれらの操作ができるのか、その時点で会話そのものではなくなる(例えばインタビューや対談記事や「まとめ」になる)のかも。

しかしもちろんフィクションで自然とされる会話もそのままの文字起こしではないので、ある操作(の制限)で自然さなりリアリティ、「会話性」といったものが保持されている。では「コメントストリーム性」とは…? みたいな話

2ch的掲示板がフィクションに登場する時ももちろん「まとめ」的操作がなされてるのだけど、それはそんなに不自然に感じなくて、一定の流速を超えた時のガヤガヤ感(猥雑さ、渋滞)が小説的ストリームに乗ると喪失してしまう(スムーズな応答になってしまう)という話なのかな

アイドル等と比較するとVTuberのファンコミュニティ描写は(匿名性という特性を手放したくないため)ストリームや掲示板に寄らざるをえない、しかし会話描写のリアリティ的実践に比べてまだ途上だしそもそも小説という形式と食い合わせが悪い、という状況

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