書影BL怪談_カバー帯なし

契り(破約)/王谷晶著『BL古典セレクション③怪談 奇談』より

「おいら、死ぬのは怖くねえんだ……嘘じゃねえ。ほんとだぜ」
 掠れた声に頷いてやると、白くひび割れた唇がにやりと笑った。
「切った張ったの今生よ……畳の上で死ねるなんざありがてえくれえだ。でもよ兄貴。ひとつだけ、ひとつだけ心残りがあるんだよ」
 佐吉の逞しかった腕は、今や病に蝕まれ枯れ枝のように痩せ細っていた。長治はその手を握り締める。江戸に居を構える極道、長治一家の一の子分、匕首の佐吉の命は今まさに終わろうとしていた。
「なんだい、言ってみな」
「おいらが死んだら、兄貴はまたきっと他の誰かを舎弟にするだろ。そいつと盃交わすだろ。な。誰を選ぶんだい。定吉かい。それとも政かい」
 光る目がじっと長治を見据える。そこだけは依然ぎらぎらと生気に満ちていて、まるで残りの命の火を全て使い尽くそうとしているように見え、長治は密かに唾を飲み込んだ。
「つまらねえことをぬかすんじゃねえ。この長治が兄弟と決めた男は佐吉、おめえだけよ。他の誰にも、二度と兄貴とは呼ばせねえ」
「ほんとかい……信じていいのかい」
「俺がおめえに嘘ついたこと、今まで一度だってあったかね」
 外し忘れの風鈴が、軒下でちりんと鳴った。
 ーー何考えてんだ、兄貴。やくざの家に風鈴なんて似合わねえよ。
 それを買ってきたときのことを思い出す。夏の始まりにはそんな減らず口を言う元気もまだあった。長治は文句を垂れる佐吉に答えずに、その寝床から一番見えいい場所に風鈴を吊るした。お天道様も祭りの賑わいも見えない部屋の中で、この風鈴だけが佐吉にとって最後の夏になるのを、長治はその時すでに知っていた。
「兄貴。おいら、今まで生きててこんなに嬉しいことはねえ。長治親分の唯一人の兄弟分になれたのを、冥土で鬼に自慢させてもらうよ」
「そんな弱音を吐くんじゃねえ。医者だって治る見込みはあると言ってたじゃねえか」
「手前のことは手前が一番分かってら。おいらはもう長くはねえ。今日明日だろうよ。分かるんだ、兄貴。分かるんだよ」
 弱々しい力で、枯れた手が長治の手を握り返した。
「おいらが死んだら、墓はここの庭に建ててくれるかい」
「ああ、お前がそうしたいんならそうしてやる。立派な墓石も買ってやる」
「そんなもんはいらねえよ。ただ……埋める時にはあの軒下の風鈴を持たせてもらいてえ」
「風鈴を? なんだってまた、そんなもんを」
 佐吉はまた笑おうとしたようだが、唇が震えて歪んだだけだった。やくざ者とは思えない、子供のように朗らかに笑う男だったのに、病はその笑みまでも奪おうとしていた。
 兄弟分の盃を交わした日のことが、長治の胸にありありと蘇る。まだふたりとも、今よりもっと若かった。長治は親分ではなく、佐吉はちんぴらですらなかった。こんな立派な家屋敷ではないおんぼろ長屋の隅っこで、ひび割れた盃に安い酒を注いで、互いに酌み交わし、夜明けまでただお互いの目を見て酒を飲み続けた。
 これは俺の男だーー長治はそのとき、心からそう理解した。思った、や考えた、ではない。腑に落ちたのだ。閻魔様の裁きを受けるその日まで、互いの背中を預け合う、一生に一度の男。それと出会った。佐吉の肚も同じなのは手に取るように分かった。
 ーー俺はおめえ、おめえは俺よ。分かるか、佐吉。
 ーー分かるよ。兄貴はおいら、おいらは兄貴だ。
 一も二もない。盃を放り出し、犬の喧嘩のように飛び付き組み合って、帯を着物を褌を引き千切り、互いを喰らうように抱き合った。何の支度も無かったが、長治は佐吉の股を問答無用で割り開いた。
 ーーちくっと痛てえぞ。我慢しな。
 ーーかまうもんか、さっさと寄越せよ。兄貴がくれるもんだったら、なんでも欲しいよ。痛いもんも苦しいもんも……。
 あのときも夏だった。長屋のどこかで風鈴が鳴っていた。水を被ったように流れる汗と滲む血と、時折笑うように喘ぐ佐吉の声に頭がくらくらした。暑かった。熱かった。精も根も尽き果てるまで抱いて抱いて抱きまくって、二人分の腎水と涎とにまみれたまま丸一日眠り続けた。次の日目が覚めてから今日まで、二人は一日と互いの側を離れたことがない。
「兄貴よ……あんたほんとに、おいらに善くしてくれたよな」
「なんでえ急に、気色の悪い」
「言っただろ、もう逝っちまいそうだ。最後にしおらしい顔くらいさせてくれよ」
「馬鹿野郎……」
 堪えきれず、長治は佐吉の身体を掻き抱いた。それはあの夏の日に抱いた男と同じ人間とは思えぬほど、薄く、儚く、脆かった。
「ああ、幸せだ。おいら、あんたの唯一人の男として逝ける。地獄で物見遊山して待ってるからよ、うんと遅く来てくれよな。うんと遅くだぜ。すぐ来ちゃだめだぜ、兄貴……」
 そう言うと、まるで眠るように静かに、佐吉は長治の腕の中で死んだ。
 長治は約束通り、屋敷の庭に佐吉の墓を建てた。軒先の風鈴を手に握らせ棺桶に入れ、立派な葬式をあげて手厚く兄弟分を葬った。生前は肌身離さず持っていた匕首を形見として譲り受け、同じように常に懐に仕舞うようになった。
 背中を預けた男が居なくなったのは、文字通り右腕をもがれたような苦しみだった。しかし長治には一家を率いる責がある。少しでも弱気を見せれば背中から討たれるのが渡世人の常だ。喧嘩上等で有名だった懐刀の佐吉がとうとう死んだと聞いて、縄張り荒らしが騒がしくなってきた。
 長治は自ら子分を引き連れ修羅場に出向き、楯突く相手は啖呵も言わせず斬って捨てた。その場に居合わせれば女子供も容赦なく殺した。長治親分は鬼になった―子分も近所の堅気衆も、すっかり阿修羅のような顔付きになった長治を恐れ、遠巻きにした。
 そんなある日の事だった。佐吉と同じくらい古参の子分だった賭場の政が、一人の若い衆を連れてきた。まだ小僧っ子と言っていい年頃だったが、勘の良さそうな面構えをしている。五郎というその若い衆は政の遠縁で、江戸で一旗揚げて男になりたいと田舎から出てきたのだという。
「親分、もう長いこと屋敷に飯炊き女すら入れていないと聞きやしたぜ。一家の親分が小間使いもなしのやもめ暮らしじゃ外聞が悪りい。この五郎ならどんなに扱き使っても文句は言わねえですから、どうか下働きにしてやってくだせえ」
 長治はそれを拒んだが、政の食い下がりと、「どうか使ってやってください!」と土間に膝をついた五郎の意気に負けて、とうとう家に入れてやることにした。
 実際、五郎はよく働いた。余計な詮索や無駄口を叩かないのも気に入った。ただ、朝に夕に寝所から佐吉の墓を見るたびに、長治の胸は微かに痛んだ。何も疚しいことはないはずなのに。
 血なまぐさい日々はその後も続いた。五郎は出入りに自分も連れて行ってほしいと何度か頼み込んできたが、餓鬼の遊びじゃねえと突っぱねた。それでも毎日玄関先できちんと座って犬の仔のように主を待つ姿に、次第に長治の顔も阿修羅から人に引き戻されていった。渡世人に本気で憧れているのか、歩き方から箸の使い方までこっそり長治を真似ようとしている姿は見ていてくすぐったい。出会ったばかりの佐吉も、やたらと長治の真似をしたがったのを思い出した。
 ある晩、長治は珍しく酒を少し過越してしまった。ふらつきながら酔い覚ましに人気のない通りを歩いていると、ひたひたと足音が背中から迫ってくるのに気が付いた。
 拙ったな、と思い懐の匕首に手を伸ばす。相手は一人。荒い鼻息が闇夜に紛れて聞こえてきた。
「ち、長治だな」
 気付かれたのを悟ったのか、震える声がそう呼んだ。
「だったらなんでえ」
「女房の敵だ。い、命を貰う」
 振り向くと、やつれた顔をした職人風の男が一人、切っ先の四角い蛸引包丁を持って立っていた。
「そんな得物じゃ刺すも斬るもおぼつかねえぜ。俺ぁ刺し身じゃねえんだ。てんで素人だな、あんた」
 鼻で笑って懐の匕首を取り出す。普通ならそれで怖気づいて逃げる者が大半だが、男はどうやら本気のようだった。上ずった声をあげ、包丁を構えてまっすぐに突進してくる。
 難なく躱して仕留めてやろうと思ったが、足がもつれた。しまった、と思う間もなく蛸引の薄い刃が長治の肩を撫で着物を切り裂きぱっと血飛沫が上がった。
「死ねえ!」
 体当たりされ、長治は地面にもんどり打った。陰る月を背に男が涙を流しながら包丁を振りかぶるのが見える。
(こんなつまらねえ男に殺られるのか)
 ふっと、佐吉の顔が浮かんだ。
(悪いな、早々におめえの面を拝みに行くことになりそうだ)
 そのとき、男の身体がぐらりと傾いだ。
「親分!」
 五郎の声だった。地面からぱっと火の手があがる。放り出された提灯が燃えていた。
「五郎……」
 五郎の両手には血の着いた大きな石が握られていた。足元には、熟れすぎて割れた西瓜のようになった蛸引き包丁の男が転がっていた。
 五郎の手を掴み、人目に付く前に急いで屋敷に戻った。灯りは点けず、暗い部屋の中でただ黙って座る。荒い息の音だけが、しばらく響いた。
「……申し訳ございやせん」
「何を謝る。俺はただ謝られるのは好きじゃねえ。理由を言いな」
「……親分の帰りが遅いんで、迎えに行こうと……そしたら、ああなってて……」
「俺は餓鬼か。それともおぼこ娘か」
「すいやせん……」
 長治は溜息を吐いた。暗闇に目が慣れて、ぎゅっと身体を縮めて申し訳なさそうにしている五郎の顔もよく見える。それこそおぼこ娘のような面をしているが、一撃で男を仕留めたあの動きに迷いはなかった。
「何が欲しい」
「は」
「命を助けられたのには違げえねえ。俺は貰った礼は返す男だ。欲しいもんがあんなら言いな。なんでもいい」
「い、いや、おいらは当然のことをしただけで、礼だなんてそんな」
「同じことを二度言わすんじゃねえ」
「……はい」
 五郎はしばらく考え込んでいたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「兄貴と呼ばせてくだせえ」
「な……」
 長治は息を呑んだ。
「物や金はなんにもいらねえ。粟の一粒だっていらねえです。ただ、長治親分を兄貴と思っていいですか。おいらが望むのは、それだけです」
 男に二言はない。それを破れば渡世人の面子は無くなる。
 しかし、長治の耳の奥で微かに風鈴の音が鳴る。佐吉との約束が蘇る。
 だが最後には、長治は面子を選んだ。

 子分と認めた男にいつまでも下働きはさせられない。長治は新たに顔なじみの老婆を下女に雇い、五郎を正式に一家に入れた。住む場所もどこかの長屋に都合してやるつもりだったが、「もう少しだけ兄貴の側で男を学びてえ」と食い下がるので、まだ同じ屋根の下に暮らしている。長治の命を狙った男を殴り殺した忠義の極道として、五郎の名も次第に渡世人の間に知れるようになってきた。
「兄貴!」
 そう呼ぶのを許した日から、五郎はますます長治に心酔し、熱っぽい眼差しで見るのを隠しもしなくなった。長治も正直悪い気はしなかった。最初のうちは疚しさや申し訳無さを感じることもあったが、次第に五郎が側にいる暮らしが当たり前になっていった。見込んだ通り、五郎は度胸もあるし頭の出来も悪くない。腕っぷしもなかなかのものだった。あとは場数さえ踏めば、いずれいっぱしの渡世人になるのは間違いなかった。
 そんなある日、長治は古馴染みの家に遊びに出かけ、話も酒も弾んだのでそのまま一晩泊まり込んだ。しかし次の日の夕刻に家に戻ると、様子がおかしい。庭に入ると、屋敷中の窓から灯りが漏れているのだ。
「五郎、どうした。なんでえあちこち行灯光らせて。油がもったいねえだろう。誰か客でも来てんのか」
「破門してくだせえ」
 玄関の上がり框に正座して、五郎は平べったくなるくらいに頭を床に擦りつけていた。
「おい、なんだってんだ。何の話だ。破門だ? つまらねえ冗談を言うんじゃねえ。そこを退きな。中に入れねえじゃねえか」
 押し退けて部屋に入ると、五郎も後から着いてきた。その顔を見てぎょっとする。血の気を無くし真っ青になっていて、瘧のように震えているのだ。
「お願いしやす。どうかおいらを、なんにも言わずに破門にしてくだせえ」
「おい、どういう了見だ。ついこの前子分にしてくれと言ってきたばかりじゃねえか。てめえ、この稼業をなめてかかってんのか」
 どすを効かせて怒鳴ったが、五郎は破門にしてくれと木偶のように繰り返すばかりだ。
「一家に一人加えるってのは生半可なことじゃねえ。俺はおめえを子分にする価値があると信じたから盃をやったんだ。破門も同じだ。頼まれたからと理由もなしにホイホイ請け負えるか。おめえは一家の名に、俺の名前に傷を付けてえのか」
 詰め寄ると、五郎は崩れ落ちるように床に膝を着いた。
「決して……決してそんなことは……兄貴と一家の名に傷を付けるようなことは……」
「なら理由を言いな。まっとうなわけがあるなら、聞いてやろうじゃねえか」
 五郎は額に浮いた汗を袖でしきりに拭い、辺りを覗い、密談をするように小さな声で喋りだした。
 昨日の晩、五郎は主のいない家でいつも通り眠りについた。しかしうとうとしはじめたところ、どこからか妙な音が聞こえてきた。

 ちりん
 ちりん

 それは鈴のような音だった。巡礼か虚無僧でもうろついているのかと思い気にせずまた布団を被ったが、音はどんどん大きく、どんどん近づいてくる。

 ちりん

 とうとう、耳の一寸先で大きく鳴らされ、五郎は悲鳴をあげて飛び起きた。
そして、見てはならないものを見た。
 枕元、見上げてすぐのところに、見たことのない小さな風鈴がぶら下がっていた。戸締まりはしたはずなのにどこからか風が吹いて、それがちりん、と鳴った。
 風は、魚の腸が腐ったようなひどい臭いをしていた。次第に、雲が晴れて月が見えるように、風鈴を持った手とその先の腕、胴体、顔が暗闇の中に浮かび上がった。
 その姿を見て五郎は布団の上にげろを吐いた。恐怖のあまりに吐いた。
 それは汚れた経帷子を着ていて、指にも腕にも、そして顔にも、腐って溶けた肉がへばりつきぶら下がっていた。目玉のあるべき場所はぽっかりと真っ黒い穴が開いているだけ。なのに五郎ははっきりとそれに睨みつけられているのが分かった。
『出ていけ……』
 それが喋った。開いた顎の中も真っ黒で舌も見えなかったが、それでもはっきりと喋った。
『この家から出ていけ……兄貴の一家から出ていけ……そこはてめえの居場所じゃねえ……誰にもなんにも言わずにすぐにここを出て行け……誰かに……あの人にも……何か言ったらてめえを八つ裂きにしてやる……』
 骨の見える腐った手が、五郎に迫った。
 その瞬間、あまりの恐ろしさに気を失ってしまい、起きたらすっかり朝になっていたのだという。
 長治は腕を組んでじっと話を聞いていた。そのこめかみにうっすらと汗が浮く。
「それは……何か悪い夢でも見たんだろうよ。食あたりかなんかして、それで妙な夢を見たんだろ。よくあることよ」
 そういなそうとしたが、五郎はきっぱりと頭を振って食い下がった。
「あれは絶対に夢なんかじゃあねえです。おいらは確かにこの目で見ました。この耳で聞きました。誰にも言うなという言いつけを破っちまった以上、本当に八つ裂きにされるかもしれやせん……兄貴、頼みます、どうか破門にしてくだせえ……!」
 平身低頭する五郎を前に、長治の背筋に寒気が走った。
「……よし、そんなら今夜は俺が一緒の部屋に寝ておめえの言うことを確かめてやる。その経帷子の男がほんとに出たら、俺がお前を守ってやる。それならどうだ?」
 五郎はそれでも青い顔をしていたが、やがて長治の話に頷いた。
 寝所に二つ並べて布団を敷かせ、長治はその上であぐらをかいて酒を煽った。利き手は懐の中に入れ、匕首をしっかと握っている。佐吉の形見の匕首だ。
 五郎の話を真実と全て信じたわけではなかった。しかし本当に佐吉の幽霊が現れたなら、それを説き伏せられるのは自分しかいないのも分かっていた。佐吉は約束を違えた長治に怒っているのだ。
 五郎は部屋を暗くするのを赤ん坊のように怖がったが、無理やり布団に突っ込んで寝かせ、灯りを全て消した。
 どれほどの時間が経ったろうか。あぐらをかいたまま、いつしか長治もうとうとと船を漕いでいた。

 そこに、奇妙な音が聞こえてきた。

 ちりん

「あ、兄貴!」
 五郎がすぐさま飛び起きた。
「馬鹿野郎、じっとしてな。静かに、音を立てるんじゃねえ」
 制する長治の声も震えていた。障子にぼんやりと人影が浮かび上がる。
「き、来た! やっぱり化物だ! 本物だ!」
「黙れっ!」
 長治は匕首を抜いて立ち上がろうとした。しかし、動かない。足も、手も、指の一本も、毛筋ほども動かすことができない。まるで見えない巨大な手にぎゅっと全身を縛められているようだ。
「兄貴!」
 それは間違いなく、あの懐かしい風鈴の音だった。ぴくりとも動けないまま、長治はだらだらと汗を流しその音のする方を見据えた。静かに障子が開き、どっと生臭く黴臭い風が流れ込んできた。
『違えたな……約束を……違えたな……』
 嗄れ軋むような声だったが、それが佐吉の声なのははっきり分かった。
(佐吉)
 長治は必死に口を開こうとするが、動かない。舌まで凍りつき、喉で呻くことすらできない。
「兄貴! 助けてくだせえ! 兄貴ぃ!」
 五郎は布団の上で腰を抜かしへたりこんでいた。そこにゆっくりと、ゆっくりと佐吉が近づいて行く。
(やめろ、佐吉、やめやがれ。墓場に帰れ。何考えてやがる!)
『違えたな……約束を……あんなに誓ったのに……』
 経帷子を着た佐吉の亡霊は、まるで長治など目に入っていないようにまっすぐ五郎の前に立つと、両手でがしっとその頭を掴んだ。
「ひいいぃぃ!」
 甲高い悲鳴が上がった。
(やめろ、佐吉、やめろ! 逃げろ五郎!)
 佐吉の手がゆっくりと、石臼を回すように、五郎の頭を回した。ごきりと厭な音がして、悲鳴が止んだ。 
 長治は思わず目を閉じようとしたが、それも叶わなかった。眼の前で、佐吉は五郎の頭を回し続ける。布団の上に投げ出された手足がびくびくと暴れ、やがて動かなくなった。
 ねじ回された五郎の顔が一周し、再び長治の方を向いた。舌がだらりと垂れ下がり、口から血が溢れ、白目を剝いて事切れていた。それでも佐吉は首を回し続け―やがて血飛沫を迸らせながら、五郎の胴と首はねじ切られてしまった。
(何てことをしやがる。そいつは何も悪くねえ。ただの若造じゃあねえか!)
 胸の内で必死に怒鳴る。両の目から涙が溢れ、浴びた返り血と混ざり合いぼたぼたと布団に流れ落ちた。
 そこで初めて、佐吉は長治に気付いたように、くるりと顔をそちらに向けた。
(なんで五郎を殺した! 殺したいのは俺だろうが。おめえとの約束を違えたのは俺だ。この俺だ! 殺すなら俺を殺しやがれ!)
 涙を流しながら長治は胸の中で叫び続けた。
 すると、佐吉は腐った口を大きく開いて、げらげらと背を仰け反らせ楽しそうに嗤いだした。
『兄貴、それは兄貴の思うところだろ。おいらは違うよ。そうは考えねえ』
 その刹那、長治を縛り付けていた力がふっと解けた。
「てめえ!」
 すぐさま匕首を抜き躍り掛り、長治は佐吉の心の臓を一息に刺し貫いた。
 嗤いが止まり、目玉のない目がじっと長治を見つめた。最期の日のように。
『待ってるぜ、兄貴。うんと遅く来てくれよな。うんと遅くだぜ……』
 そう言うなり、佐吉の身体はばらばらと骨の一本一本が砕けて、その場に崩れ落ちた。
 夜が明けた。
 差し込む朝日の中に、苦悶の顔で目を見開いている五郎の生首と、土に汚れた風鈴が、静かに並んで転がっていた。


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