ドナウ_800-

#04 茜色の大聖堂、ジチャ修道院を訪ねて

セルビア在住の詩人、山崎佳代子さん連載『ドナウ 小さな水の旅』。歴史の荒波の中で17回破壊され、そのたび復興した平地の大聖堂、ジチャ修道院へ向かいます。

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「午后四時、晩祷。午后五時、小食堂にて、一人の夕食。人参サラダ、ビーツサラダ、野菜スープ、パン。まろやかな味。その後、夕暮れの果樹園にむかう。帰り路は闇に沈み、果樹が影を大地に伸ばす。あぜ道をライカとミルカが駆けていく。午后七時時半、就眠。」


 クラリェボ市の中心から五キロほど東へ向かい、イバル川にかかる橋をわたり、街道をゆくと、右手に茜色の大聖堂が厳かに現れる。ジチャ修道院である。傍らをイバル川の支流、さらに細いリブニツァ川が流れていく。
 イバル川の水源は東モンテネグロのハイル山、ビトコビッチ村でセルビアに入り、コソボ・メトヒヤをたどりセルビアを南西に流れる。流域は民族紛争地域である。全長二七二キロ、クラリェボ市で西モラバ川に注ぎ込む。リブニツァ川の水源はゴッチ山とストロビ山の間で全長わずか二六キロ、鱒が棲息する清流だ。
 セルビアの修道院の多くは山奥にひっそりと建っているが、ジチャ修道院は街道に面して、平野に在る。この街道は、東はイスタンブールに続き、西はアドリア海のドブロブニクに至り、北は中央ヨーロッパに繋がる重要な道である。セルビア王国黎明期の十三世紀初頭には、理想的な位置だった。東方教会から自治独立を認められたセルビア正教会は、ビザンチン帝国の首都コンスタンチノポリスからも、西方教会のローマからも、ほどよい距離をとる必要があったから……。最初に訪ねたときは、はっとした。あまりにも無防備で傷つきやすい場所ではないか、と。たしかに、歴史の荒波を航海する船のごとく、ジチャ修道院は十七回も破壊され荒廃し、そのたびに復興され甦ってきた。

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 修道院は、一二〇六年から一二一七年にステファン・ネマニッチ戴冠王により創設された。父ステファン・ネマニャはネマニッチ王朝の創始者、大族長としてセルビア王国を築き、次男ステファンに王位を譲り、長男ブカンにはゼタ地方の統治を委ねる。だが三男ラストコは世俗を捨て、十七歳で王宮を抜け出して東方教会の聖地ギリシャのアトス山で出家して、修道僧サバとなり、セルビア正教会の礎を築くことになる。
 十三世紀はビザンチン帝国の衰退期にあたり、バルカン半島の覇権をめぐり諸国間の争いが絶えぬ戦国時代だ。一二一九年、サバはビザンチン帝国のニケーアでセルビア正教会独立の承認を得て帰国、セルビア正教会大主教となり、ジチャ修道院にて兄ステファン王の戴冠式を執り行う。以来、ジチャ修道院でセルビア王国の戴冠式を行うことに定められ、聖堂の壁は王家の象徴である赤とされた。赤は犠牲を表す色、王は神により地上の権限を託され、民のために国を正しく治めねばならぬという当時の思想が反映されている。ジチャ修道院では、十三世紀末までにネマニッチ家の五人の王が戴冠している。
 ネマニャも晩年、アトス山に向かい、出家する。修道僧シメオンとしてサバとともにセルビア正教会の発展のために力を尽くした。オスマン・トルコ帝国によってセルビア王国が征服されるまでの約二百年、ネマニッチ王朝は繁栄し、数多くの修道院や聖堂を創設した。
 晩年、サバは巡礼の旅に出て、ブルガリアのベリコ・トルノボで客死。遺体はミレシェボ修道院に移され、聖人として列聖される。だが一五九四年、その不朽体はオスマン・トルコ帝国の命により、ベオグラードのブラチャルで焼かれた。聖サバは教育の守護聖人として民に愛され、民間伝承も多い。
 最初にジチャを訪ねたのは、いつだったろう。親しい人を次々と失くした年だった。それ以来、四季折々、時あるごとに訪ねてきた。

 三月六日、久しぶりに修道院の僧門をくぐる。五日間を過ごす許しをいただいた。入り口で名を告げると、修道女シメオーナが迎えてくださる。清楚で聡明な少女のような人。最初に修道院を案内していただく。

 まず、救世主ハリストス大聖堂の入り口に立つ。十三世紀の建造。石と煉瓦を交互に重ねて赤の漆喰が塗られている。大理石は使われず、柱や扉、窓には、葡萄の蔦や鳥などの彫刻も刻まれず、簡素な美しさだ。セルビア中世教会建築、ラシカ様式の典型である。
 正面の入り口の外側上部に描かれるのは、子供を従えたハリストス(キリスト)。マルコによる福音書九章三六節、「子供一人を受け入れる者は、私を受け入れる」の記述だ。正面の入り口の内側上部に、ハリストス降誕賛歌が記され、生神女(聖母)マリヤが赤子ハリストスを抱き、背後に東方の三博士、天使と羊飼いが見える。扉の右に描かれているのはステファン初代戴冠王、左に息子ラドスラブ。右側の壁の上部は、キリル文字で婚姻法、軍事法が記され、左側には教会の領地(メトフ)の四二の町村の名前が記されている。紛争地のコソボ・メトヒヤの町や村の名もあります、とシメオーナ姉。プリズレン、プリシティナなどが読み取れる。その下の左右の壁面は、ローマ帝国時代に迫害されて殉教した四〇名の致命者の群像、気を失った仲間を抱き起す者、それを見つめる者……。

 聖堂に入る。ひんやりとした空気が静寂をまもる。壁を見上げ、シメオーナ姉の声に聞き入る。聖サバは、アトスから優れたビザンチン美術の画家や建築家をともない帰国する。十三世紀初頭、壁いちめんにフレスコが描かれて、セルビアは中世ビザンチン美術の頂点を示した。だが度重なる戦いと掠奪により、現在も残るのは当時の壁画の五分の一に過ぎない。十二使徒も六人だけが残る。左の壁のフレスコは、第二次大戦時、ナチス・ドイツの爆撃で、ほぼ消失した……。ナチスとの協力を拒んだジチャ修道院長ニコライ・ベリミロビッチ(一八八〇〜一九五六)は捕らえられる……。

 後方の壁のフレスコは、生神女(聖母)マリヤの就寝図だ。何度も見ているはずなのに、初めて出会う気がする。マリヤの昇天は聖書に記述がなく伝承による。地上の命を終えたマリヤは、悲しむ弟子たちを慰めるように安らかに眠り、釈迦の涅槃図を思わせる。画像の中央にハリストスが白い布にくるまれたマリヤの霊を抱き、空に二人の天使が舞う。マリヤが赤子の姿なのは、童貞女(処女)の象徴です……。シメオーナ姉の声で、我に返る。ハリストスの右半身は破損しており、霧から現れたようだ。慈悲の瞳で、この世を見つめている。
 聖堂の左右は副聖堂、左はイェルサレムの聖サバを祭り、右はネマニッチ王朝の守護聖人である聖ステファン(初致命者首輔祭ステファン)を祭り、柔らかな光を浴びていた。

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 庭を横切り、聖サバ聖堂に入る。両大戦間にニコライ・ベリミロビッチ修道院長が創設した小さな聖堂だ。一九一七年のロシア十月革命でセルビア王国に逃れたロシア人画僧二人が、壁画を描いた。シメオーナ姉が、左側の壁を指さす。暗がりに青く滲むのは、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ・ロマノフ二世の肖像、大きくはない。
 はっ、とする。ニコライ・ロマノフ……。若き日に極東見聞のため長崎などを旅行し、大津事件で危害を加えられたロシア皇太子、彼こそがニコライ二世だ。歴史はさまざまな国を細い糸で繋いでいた。第一次世界大戦勃発、ニコライ二世はセルビア王国側に援軍を送り、そのためフランスも同盟国となり、セルビア王国は勝利する。だがロシア帝国内の混乱は深まり十月革命を速め、王家は凄惨な最期を遂げた。ソ連時代、ロマノフ家はタブーテーマ、これが最初のニコライ二世の壁画でロシア人の観光客が訪れるという。一九四五年、社会主義時代のユーゴスラビア、クラリェボ市当局の命令で、ジチャ修道院の修道女はニコライ二世のフレスコを粗末な包装紙で覆い、長いこと秘密だったそうだ。
 庭に、小さな聖堂がもうひとつある。四世紀のローマ帝国時代の殉教者聖ティロンと聖テオドルを記念する聖パウエル・聖ペトル教会だ。聖ティロンはローマ帝国時代の殉教者、ホポボ修道院の深紅のビロードに包まれたあの不朽体だ……。壁画は十四世紀のもの、現在の建物は十八世紀から十九世紀に再建され、素朴な石と煉瓦の壁が優しい。

 庭の向こうに、広大な果物畑が続く。あれが聖パイシア聖アバクム納骨堂です、とシメオーナ姉が遠くを指さす。一八一四年、ハジ・プロダノビッチが西セルビアでオスマン・トルコ帝国に対する蜂起を率いるも失敗、パイシア修道院長と輔祭アバクムはイスラム教への改宗を拒み、ベオグラードのカレメグダンにて処刑された。この二人の名を記念している。二十世紀に入り、ジチャ修道院の墓地の傍らを掘ると、数多くの人骨が出てきた。女子供のものも多く、セルビア蜂起の犠牲者であることがわかり、納骨堂が建てられ葬られたのだった。

 修道院では葡萄、林檎、梨、桃、アローニア、アプリコットなどが育てられ、ジュースやジャム、林檎酢、ワインなどが製造されるほか、野菜も作られている。二月十四日は正教会の聖トリフン祭(聖バレンタイン・デー)、神父が果樹一本一本に聖トリフンを讃えて祈り、畑を巡る。害虫がつきませんよ、とシメオーナ姉。聖歌や祈りの善き震動が、樹にも虫にも土にも伝わるのかしら。

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 石段をおりると僧坊だ。ここがあなたのお部屋です、とシメオーナ姉。個室の扉に鍵はない。部屋の窓から、ストロビ山とゴッチ山が見える。小さな木製の机と椅子、帽子掛け、作り付けの戸棚、ベッド。サイド・テーブルに目覚まし時計と書物が一冊。静謐な空間。椅子にテントウムシが一匹。指先にのせ、窓辺に移す……。

 荷解きをおえ、小食堂に通されて、シメオーナ姉の祈りのあと、一人の昼食。サワークリームは、ギリシャの女子修道院から届いた。鯉の唐揚げ、芽キャベツのスープ、チーズ、ビーツのサラダ、人参サラダ、パンなどが大理石のテーブルに並ぶ。赤ワインが、味わい深い。愛と魂と祈りをこめて料理するからですよ、ギリシャのアトス山の修道院では、料理の失敗は三回の伏拝、祈りを忘れて料理すると三十回の伏拝です、とシメオーナ姉が微笑む。正面の壁に「機密の晩餐(最後の晩餐)」が描かれている。午后二時から四時まで部屋にて休息、修道院の歴史を記した小冊子を開いた……。

 聖サバの死後、ジチャ修道院はすっかり荒廃し、総主教座はジチャからコソボ・メトヒヤのペーチへ移される。ペーチ修道院の壁も赤く塗られ、王の戴冠式が行われたが、一三八九年のコソボの戦いでセルビア王国はオスマン・トルコに敗れ、独立を失う。十五世紀には、修道僧たちはジチャ修道院からフルシカ・ゴーラのシシャトバッツへ逃れた。十六世紀、オーストリア・ハンガリー帝国とオスマン・トルコ帝国がバルカン半島の覇権を争って戦うと、ジチャも戦場となり、聖堂の屋根が無い時期も百年ほど続き、壁画は風雪にさらされる。
 十九世紀初頭、セルビア第一次蜂起が起こると、ジチャ修道院の修道僧も戦に加わった。だがオスマン・トルコに鎮圧され、ジチャはふたたび荒地となる。独立運動は続き、一八六五年に修道院は復興、学校や宿坊が創設される。一八七八年、セルビアの独立がベルリン会議で認められると、一八八二年、蜂起の指導者のミロシュ・オブラドビッチ公の息子、ミランの戴冠式が行われ、セルビア王国が再生する。その年、ミラン王が在仏セルビア王国公館を通じ、明治天皇にセルビア王国の独立が承認されたことを知らせると、明治天皇からは祝福の手紙が届いた……。日本とセルビアの最初の出会いも、この聖堂と縁がある。

 午后四時、晩祷。午后五時、小食堂で一人の夕食。目玉焼きとグリンピースのスープとパン。その後、イェレナ修道院長とお話をした。「小鳥に近づくように、そっと人の心に近づくことが大切ですね」とおっしゃる。穏やかな瞳から、愛が溢れていた。午后八時半、就眠。

 三月七日、朝三時半起床。朝四時の夜半課と早課。空が寒い。修道女が木の板を小槌で叩き、祈りの時を告げる。群青の闇に鐘が響きわたり、黒衣の修道女が次々に聖堂に集まり、円蓋の窓が暁の空を切り取る。神父の読経に、修道女の聖歌が重なりあい聖堂に響く。ビザンチン唱法に哀傷はなく、神秘にみちて力強い。正教会の祈りはすべて歌われ、楽器は使われず、透き通っていた。
 聖体礼儀がはじまる。パンを赤ワインで煮たものを、神父から一つの銀の匙でいただく。ハリストスの身体と血。儀式が終わるころ、天蓋の窓は明るんで、朝が訪れていた。

 一人で果樹園に向かう。墓地に出ると、その先は大きな池、畔に葦が生えている。鱒の養殖場だ。遠くの山脈には、まだ雪が残る。寒い。果樹はまだ葉も拡げない。身体が冷え切っていた。部屋にもどり熱いシャワーを浴びる。

 九時半、大食堂にむかう。二匹の犬が駆けてくる。茶色はライカ、黒はミルカ、雌の雑種で人なつこく、犬らしい犬たち。これから昼食、つまり朝食はない。一日二食だが、空腹は感じない。広間に白い大理石のテーブルが並び、木のベンチに修道女が席をとり、祈りのあと食事が始まる。一人の修道女がニコライ・ベリミロビッチの書物を朗読し、聞きながら食する。金属の食器やフォークの音が静かに響き、私語はない。魚、ヨーグルト、長ネギ、二十日大根、豆シチュー、野菜スープ、ピザパン、パプリカのクリームチーズあえ……。いずれも絶妙な味。デザートはチョコレート・アイスクリーム。ゆっくり食し、満ちたりる。最後にベルが鳴り、感謝の祈りのあと、イェレナ修道院長が食堂を去り、修道女たちも厳かに次々と退室する。

 午前十時、シメオーナ姉の案内でイコン工房と刺繍工房を訪れた。工房は、窓から陽光が差し込む。棚に数多くの絵具が並び、三人がイーゼルに向かって黙々と筆を動かす。プロフィリア姉は看護婦だった人、修道生活は二十年。アントニア姉は歯科技師の学校を終えて二十歳で修道女となった。ベスナさんは修道女ではなく、近郊の村から通うイコン画家。アントニア姉がトルコ・コーヒーを入れる。工房は一九七〇年の創設。イェレナ修道院長自身が優れたイコン画家だ。アントニア姉は修業中に、イェレナ修道院長にイコンを描くようにすすめられ、この道に入った。プロフィリア姉も、絵画の勉強は修道院で始めた。ビザンチン様式の見事な作品が壁に並ぶ。
 工程は七つ以上もあり複雑だ。まず板を作る。一枚の板ではなく、縦に三枚を合わせる。菩提樹の板だ。左右の板は、中央の板と年輪の方向を逆にして木片を打ち込んでつなぎ、イコンの板が反るのを防ぐ。板に膠を塗る。虫が集めた樹液が使われる。極細かいサンドペーパーで表面を磨き、さらに綿で磨く。次にスケッチにもとづき、必要な場所に金箔を貼って磨く。板を作る職人、板を磨く修道女が、画僧のために下準備をする。「高校時代、先生から絵の才能がないと言われたの。イェレナ修道院長のもとで二年間、下絵を学びました。イコンの制作は、共同作業です。顔を描く人、衣装を描く人というように、一つの作品に何人もが関わるチームワークなの。私たちは個人の名前から解放されて、自由なのです」と、アントニア姉の顔が輝いた。

 ドアが開き、三人の子と母が現れる。二歳のボジダル君、四歳のニコラ君、五歳のマリヤちゃん。修道女たちは、歓んで子供を囲み、アントニア姉がキャンデーの入ったガラスの器を棚からおろす。小さな手が、キャンデーを取り出す。マリヤはアントニア姉の膝にだかれ、絵筆を動かしている。ベスナさんはニコラ君を膝にのせ、前駆者イオアン(洗礼者ヨハネ)の衣の部分を描く。長い棒の先についた卵大のスポンジに手を乗せ、細かい作業を続ける。絵具の乾かない部分に手が触れないための道具だ。母子は修道院付属の歯科治療室に来た。お母さんは臨月、じきに四人目の子供が生まれる。そろそろお家に帰るよ、とお母さん。母子が去ると、工房はふたたび静かになった。

 アントニア姉が語る。初期の教会美術は単純な描写が多く、花、鳥、葡萄などが描かれた。十世紀のキリスト教会の分裂のあと、東西の違いは著しくなり、描写も複雑になる。東方教会、つまりビザンチン美術では、感傷をおさえた表現がとられた。生神女マリヤは心を取り乱さず、静かにすべてを受けとめる女性として描かれていく。
 イコンは、カノンに従って描かれる。ハリストスを抱く生神女マリヤのイコンには、いくつかバリエーションがある。「こちらを見てください。生女神マリヤの頭上の右の天使は十字架を掲げ、左の天使は槍を持っている。天使は、十字架に磔となる運命を暗示する。少し怯えたような幼子ハリストスは母に抱かれ、小さな両手を母の手がつつむ。左のサンダルの紐がほどけ、足から落ちそうでしょう」とアントニア姉。紐は、目に見えないほど細い。もう一枚のイコンは、左手で生神女マリヤが幼子ハリストスを指さし、救い主であることを示す……。壁に、手本とするイコンの写真が貼られていた。小鳥と遊ぶ幼子ハリストス、これは珍しいイコンよ、とベスナさん。
 工房の机に、不思議な記号が描かれた本があった。波線、点など、アラブ文字みたい。ビザンチン聖歌の楽譜よ、とアントニア姉。絶対音階ではなく、前の音と後の音との相関関係を示す。難しそう。慣れてしまえば簡単です、とシメオーナ姉。五線譜では表しきれぬ微妙な音の変化が記されている。

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 隣は刺繍工房。シメオーナ姉たちの仕事場だ。イェレナ修道院長に才能を見出され、刺繍は彼女の生業となった。僧衣や房なども作る。刺繍の多くは、ミシンを使う。花や蔦、木の葉や幾何学模様をビロードにミシンで刺すのは、気の遠くなるような緻密な作業だ。日本の機械が味方なの、とシメオーナ姉が大きなミシンを見せてくださる。TAJIMAと書かれている。コンピュータで刺繍をプログラミングする。壁にかけられた「生神女」は、エカテリンブルグの修道女の刺繍の作品。糸はレーヨン、イコンそのものに見える。プログラミングに三か月の時間を要したという細かい作業だ。正教会と刺繍は深い繋がりがある。セルビア初の女流詩人エフィミヤ(一三五〇〜一四〇五)の詩「イイスス・ハリストスに祈る」なども、刺繍で書かれていた。

 部屋にもどる。このお部屋には、イェロティッチ先生がいつも泊まっていた、とシメオーナ姉。まあ、と驚く。高名な宗教学者、心理学者で、昨年、逝去。時折、修道院に滞在し、この部屋で執筆していた……。「なぜ人は喧嘩すると大きな声で叫ぶのか。それは心が遠く離れているから、大声で叫ぶのですよ」と、おっしゃったそうだ……。

 午后四時、晩祷。午后五時、小食堂にて、一人の夕食。人参サラダ、ビーツサラダ、野菜スープ、パン。まろやかな味。その後、夕暮れの果樹園にむかう。帰り路は闇に沈み、果樹が影を大地に伸ばす。あぜ道をライカとミルカが駆けていく。午后七時時半、就眠。

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 三月八日、三時半起床。木の板が鳴り、祈りの時を告げる。闇の石段が輝いている。昼間は見えない石の光、雲母なのか。早課のあと、シメオーナ姉が、どうぞ台所をお使いください、案内します、と言う。電気コンロの使い方を説明しながら、コーヒーを沸かす。窓から朝日が差し込む。どうやって修道生活に入ったのですか、と思わず私は尋ねていた。

 「私は一九八五年、コソボ・メトヒヤのプリズレン市生まれ。一九九九年六月、NATOの空爆が終わると、コソボは不法地帯となりました。私たちの家にOBKと呼ばれるアルバニア人民兵が侵入し、母は連行され、私たち五人の子供が残されました。父は、病気ですでに亡くなっていました。奇跡的に母は戻り、叔父をたよってクラリェボ市に難民として逃れてきたのです。
 叔父は、第二次大戦をイタリアのファシストの強制収容所で過ごした人です。内戦には、心を傷めましたね。コソボの体制は、心あるアルバニア人にとっても苦しいものです。迫害されたセルビア人の少女をこっそり匿っているアルバニア人のおじいさんもいました。
 私は農業高校に入りました。獣医になりたかったから。ジチャ修道院の近くに、畜産研究所で実習がありました。友達のすすめで、ジチャ修道院で受洗しました。私たち兄弟は、一人も洗礼を受けていませんでした。社会主義の時代でしたから、宗教が大切とは思ってなかったのですね。じきに修道女になる決心をしました。十九歳でした。修道名はネマニッチ王朝のシメオンにあやかり、シメオーナです。ジチャ修道院を訪ねて、修道生活が自分にふさわしいと直感したのです。ときどき、家族が訪問に来ますよ……」

 コーヒーの香りに目が覚める……。ひとりで、聖堂にむかう。ハリストスの磔刑図を見たかった。誰もいない。東の壁に、窓から入る光を浴びて、ハリストスは安らかな顔で両手を広げている。背景はかすかに青の混じった霧のような灰色、左に首をかたむけ瞑想するように眼を閉じて……。二人の天使が空に舞うが、壁の損傷は激しく、幽かに飛翔がわかる……。
 見つめていると、美しさに涙が流れた。春の雨のように……。ステファンに捧げられた副聖堂に入ると、もう一枚の磔刑図が壁に描かれている。穏やかな顔で眼を瞑り、拡げられた右手の先が見えない。「東方教会の磔刑図では、ハリストスの犠牲の苦痛は強調されず、血や傷口はわずかに記されるだけ。赦しが主題です。ハリストスの魂が肉体から解放された瞬間を描き、かろやかに両手をひろげ人々を救う愛を表している……」数年前、ストゥデニツァ修道院でであった若い修行僧の言葉を思い出した。

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 果樹園に向かうと、道端で野生のヒヤシンスやサフランが咲きはじめていた。樫の梢から木管楽器のような柔らかな音がする。見上げると、キツツキだ。虫を食んでいる。澄んだ声が重なる。ヒバリかしら。九時半の食事のあと部屋にもどる。その後、別棟でささやかな仕事。お土産用のマグネットを作る。白い板に赤い大聖堂の写真を貼り、裏にマグネットを貼り、セロファンの袋に入れて閉じる。単純だが神経を使う。修学旅行の子供たちが記念に買うのだろう。

 午后四時、晩祷。一人の夕食。庭に出ると、春風に吹かれ修道女が立っている。イコン画家のマクリーナ姉。瞳が青い。「あなたは日本人でしょう。よくいらっしゃったね。私、ここに来て四十年。イコンをずっと描いている。工房のすべては私の背後にあり、すべては主の助けによる」と歌うように言った。庭には七面鳥が群れをなし、草を食む。腐りかけた林檎も餌になっている。私に気づくと、いっせいに鳴き声をたてた。こっけいな声……。

 西門を見上げると、「恐れるな、ただ信ぜよ」と記されている。ニコライ・ベリミロビッチ修道院長の一九四〇年の説教の言葉である。優れた神学者だった彼の言葉は、平易だが力強い。修道院の復興とは、建物の修復であると同時に、内なる我を新たなものとすることだ、とニコライは民に語りかけた。だが翌一九四一年、第二次大戦が勃発し、セルビアはナチス・ドイツの占領下に入ると、ヒットラー自身の命令により、七月十二日にニコライは捕えられ、リュボステニェ修道院に軟禁され、さらにパンチェボ市のボイロビツァ修道院に幽閉される。同年十月、ジチャ修道院はナチスにより空爆、地上から火を放たれ大聖堂は炎上した。一九四四年、ニコライはドイツのダッハウ強制収容所に送られる……。深い祈りに支えられて生き延びて戦後を迎え、ユーゴスラビアが社会主義国となるとアメリカに亡命、各地の神学校で教え、一九五六年五月十八日の朝、奉神礼で祈りを奉げるうちに、安らかに息を引き取った。聖骸は一九九一年五月、セルビアに帰り、故郷のレリッチ村に葬られた……。ユーゴスラビアの内戦の始まる年だ。彼は、『善と悪をめぐる思索』のなかで、「真の祈りは死との戦いであり、死の否定である。そして真の祈りは生のための戦いで、生の肯定である」と記している。今日では、聖人に聖別されている。

 午后六時、空が寒い。茜色の夕映えが鎮まり、大聖堂は闇に溶けていく。畑で犬のミルカとライカが遊んでいる。庭先で、尼僧のパトリキア姉が図書室のココア色の詩集を貸してくださる。「ステファン戴冠王の詩集があります。差し上げられないけど、お貸ししましょう」とおっしゃる。

 部屋で明かりを灯し、本を開く。声を出して読む。刺繍糸のように言葉が縫いとられている。ラテン人、ブルガリア人など敵国に包囲され、出陣を余儀なくされ、戦の前の祈りの詩、昇天した父シメオンを偲ぶ詩など、東方教会の祈祷や聖書の言葉が引用され、中世セルビア文学の特徴を示す。
「光の木を見る」は、父シメオンの昇天を歌う詩だった。楽園でアダムとエバが食した林檎の木によって罪に堕ちたこと、さらにハリストスが磔にされた木によって罪が許されて新しい命を得たことが歌われている。

 見よ、東から昇る太陽のごとく、とつぜん木が現れたり。西のあたりを照らしつつ、万有にみずからの光を送りつつ、そこに磔にされた者の光で、この世すべてを照らしつつ。
 なぜなら我ら、木のために楽園の糧から堕ち、木によって、ふたたび新たな生命を授けられたり。

 書物は、セルビアの第二次大戦後のポストモダンの詩人、巨匠バスコ・ポパの編集とある。刊行者はクラリェボ市立図書館出版部、デヤン・アレクシッチ……。ええっ、アレクシッチは仲良しの詩人、私のセルビア語の詩集の編集者でもある。久しぶりに電話で声を聞く。「へえっ、修道院にいるのか。その本なら、明日、君に届けよう」と、彼。午后八時、美酒に酩酊したように眠る。

 三月八日、三時半起床、木の板が鳴り早課と聖体礼儀。祈祷の歌が句切れ、一瞬、すべての声が消える。胸を打つ、あたたかな沈黙があるのだ。天蓋からつるされた大きな輪は多燭燈、長い棒の先の蝋燭の燈火を使って、修道女が七本の蝋燭をともし、長い棒で燭台をそっと揺らすと、聖堂が光の波にたゆたう。船が光の海を漂うように。揺らめく光は天国の美を地上に表すという意味がある、と聞いたことがある。

 午前九時半、大食堂にて修道女とともに食事。イラクサのスープ、ビーツ、人参サラダ、ヨーグルト、チーズパイ……。十時から十二時半まで、仕事の続き。空が澄んで、暖かな日。庭に出ると、詩人アレクシッチが家族とやってきた。再会を喜ぶ。妻サシカは高校のセルビア文学の教師、娘のテオドラは五歳になった。初代戴冠王ステファンの詩集を届けてくれる。残部はわずか数冊だけとのこと。
 家族と聖堂に入る。見てご覧、と彼は壁画を指さす。奉仕医の聖コズマと聖ダミヤンだ。「手にメスを持っているね。十四世紀、ミルティン王の時代の壁画だが、当時、すでに手術が行われていた……」。テオドラちゃんが、庭の白い花を摘んでくれる。一家が、帰っていく。笑顔で手を振る。

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 午后四時、晩祷。夕食、散歩、入浴、荷造り、午后八時就眠。

 三月九日、滞在最後の日曜日。村や町から多くの人々が集まり、聖体礼儀に長い列が続く。小さな子供も多く、一度に聖堂は明るくなる。三つほどの女の子が、難しい聖歌を小さな口を動かして歌っていた……。愛くるしい。

 部屋にもどり、トランクを取りに行く。鍵も財布も持たぬ日々は、安らかだった。階段を下りて、シメオーナ姉とお別れの挨拶を交わす。お土産にアプリコット酒と李のジャム、手作りの石鹸、聖サバのイコンをいただく。イェレナ修道院長ご自身が、宿坊の入り口に立って、見送ってくださる。
 僧門をくぐり、ジチャ修道院を出ると、リブニツァ川の水がゆるゆると光りながら流れていく。復活大祭にそなえ、明日からは六週間の斎(ものいみ)、肉、乳製品や卵を断つ祈りの日々が始まる。茜色の聖堂をもう一度、見つめる。イバル川をわたり、ベオグラードへ向かった。林檎の白い花が咲き乱れて、春が訪れていた。


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写真はジチャ修道院と、ブラニスラヴ・トディッチ氏(Branislva Todić)に提供していただいた。


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連載の著者、山崎佳代子さんが紫式部賞を受賞されました。
https://this.kiji.is/541606921614771297



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