解説タイトル02

カジュアルに哲学|『死に至る病』編 vol.2 絶望は「不幸」じゃない!?

「カジュアルに哲学」は、哲学書をカジュアルに解説していくコーナー。
引き続きキルケゴールの『死に至る病』をご紹介。第二回目は、絶望が「不幸」ではないのは何故か、その不思議に迫ります。

[今日読む箇所]
第1部 A 絶望が死に至る病であるということ
b 絶望の可能性と現実性
[目次]
1. 絶望の不思議:絶望と「不幸」は違う!? 
2. 絶望「できる」こと:絶望はいいこと!?
3. 絶望「していない」こと:絶望してなくても絶望してる!?
4. 絶望「している」こと:絶望するのは自分のせい!?

1. 絶望の不思議:絶望と「不幸」は違う!?

みなさんは、「絶望」と聞いてどんな状況を思い浮かべますか?
たとえば、不幸な事件に巻き込まれて、大切なものをすべて失った人は、「絶望的」な状況にあるといえるでしょう。他にも、大好きな人に振られて落ち込んでいるひとは、「絶望だ…」と言って悲しむかもしれません。

このように、ふつう我々は「不幸」な人やその状況を指して、絶望的であると考える傾向にあります。つまり、過去に「悪いこと」が起きて、そのことのせいで不幸になった状態が、一般に「絶望」と考えられているものです

しかし、アンティ=クリマクス先生に言わせれば、これは全くの誤りです
絶望と「不幸」は別物。幸せな人でも絶望していることがありうるのです
今回は、我々が考える普通の「絶望(不幸)」と、「死に至る病」としての絶望がどのように異なるかを、三つのポイントからご紹介します!

2. 絶望「できる」こと:絶望はいいこと!?

誰しも一度は「絶望することもなく、毎日ハッピーに過ごせればいいのに…」と思ったことがあるのではないでしょうか。しかし、それはかなわぬ夢。たとえ今日がハッピーでも、明日絶望する可能性が我々の人生には付きまとっています。
このように考えたとき、絶望の可能性は人生に危険をもたらす悪いものであるように思われます。

しかし、 絶望「できる」ということは悪いことではありません!
というのも、絶望は「精神」を持っている「人間」しかかからない特別な病気だからです! そう、絶望できるのは人間の特権なのです!

この病[絶望]にかかりうるという可能性が、人間が動物よりも優れている長所なのである。[…]なぜかというに、この長所は、人間が精神であるという無限の気高さ、崇高さをさし示すものだからである。(p.438)


ところで、絶望「できる」とはどういう状況でしょうか。
ここで、前回のおさらいです。


精神はいわば「一つのお皿に盛りつけるようにシェフに決められているカレーとライス(関係に関係する関係)。人間の中には自由と必然性といった異なる二つの性質が入っていて、それを「一つのお皿にもりつける(総合する)」ことによって人間は「カレーライス(真の精神)を作る」ことが出来ます。絶望は反対に、「ちゃんとカレーライスが作れていない状態でした。

つまり人間は、「カレーライスを作れるかもしれないし、作れないかもしれない」という分岐点いるのです。絶望するかどうかは確定しておらず「かもしれない(可能性)」に留まっています。これが、絶望「できる」状態です。

絶望は、それ自身に関係する総合の関係における不均衡である。しかし、総合そのものは不均衡ではなく、それはたんに可能性であるにすぎない。(p.439)

では、なぜ人間だけが絶望「できる」状態にあるのでしょうか?
それは、人間だけが「カレーとライスのセット(総合)」であり、植物や天使は「カレーライス」に"作る"ことが出来ないからです。

たとえば、植物は自然の法則の必然性に従うだけで、自由に行動することはできません。人間には自然の必然性だけでなく自由が組み込まれていますが、植物には片方だけしかありません。いわば、「カレー」しか与えられていない状態です。

カレー」しか与えられていない植物は、「カレーライス」を作ることが出来ず、「カレーライスを作りそこなう(絶望する)」のが確定しています。それゆえ、「カレーライスを作るか、作らないか」の分岐点は存在していません。

もし総合そのものが不均衡であるとしたら絶望は決して存在しなかったであろうし、その時、絶望は[…]人間の身に降りかかってくる[…]病気とか、[…]死であるとか[…]、なにか人間が被るものであることになるであろう。p.439

この場合、絶望による破滅は逃れられぬ定めであって、もはや絶望ではありません。そこには、絶望が一切存在せず、それゆえ絶望「できる」状態にあるともいえないのです。

総合が神のみ手によってもともと正しい関係におかれているのでなかったら、その場合にも人間は絶望することはできなかったであろう。p.439

つまり、「カレーとライスのセット(総合)」があらかじめそろっていることによって、人間は絶望することが「できる」のです。


では、「カレーライス」が最初から出来上がっているような存在、たとえば天使の場合ならどうでしょうか? この場合も、「カレーライス」を"作る"ことはできません。だって、もう出来てるし。

それなら、絶望はどこからくるのか? 総合がそれ自身に関係するその関係からくるのである。それも、人間をこのような関係たらしめた神が、人間をいわばその手から手放されることによって、すなわち、関係がそれ自身に関係するにいたることによってなのである。(p.439)

一方、人間は、"あえて"完成された「カレーライス」ではなく、それ以前の「カレーとライス」として作られています[※1]。それによって、人間は「カレーライスを作るか作らないか」を自分で選択することが出来るのです

つまり、絶望「できる」のは、人間だけが自分の意志で行動できる存在だからなのです。絶望「できる」ことは人間の長所だといえるのは、このためです。

※1 ここには神と人間の関係についてのキルケゴール独特の視点が組み込まれています。キルケゴールに言わせれば、人間が自由なのは、神様が"あえて"人間を手放して自由にしてくれたおかげであり、神の愛の結果なのです。重要なのは、キルケゴールにおいては、「人間が自分の意志で選択できる」ことの内にすでに神関係が含まれていること、そして何が正解かはあらかじめ決まっているということです。この点については、そのうち詳しくまとめようと思います。

2. 絶望「していない」こと:絶望してなくても絶望している!?

さて、絶望「できる」ということは、人間が精神であり、自由であることを示す長所です。しかし、それでもやはり絶望は「最大の不幸であり悲惨」(p.438)です。絶望は人間にしかかからない病気なので、その悲惨も人間限定です!! なんかデメリットでかくない!?

絶望は長所であろうか、それとも短所であろうか? まったく弁証法的に、絶望はその両方である。(p.437)

そう、たしかに絶望「できる」のは人間の長所ですが、絶望「してしまう」のは人間の短所なのです。人間はハイリスクハイリターンな存在なのです。

だから、一番いいのは絶望「できる」けど、絶望「していない」状態。人間は「絶望するか、しないか」の分岐点にいるので、ここで「絶望しない」をちゃんと選べば、破滅せずに済むわけです。

さて、ここで重要なのは「カレーライスを作ること」をちゃんと"選択"をするということです。この選択をしていないと全員自動的に「カレーライスを作らない(絶望)」ルートに進んでしまうのです! これが人生の落とし穴なのです!

ところで、ふつう、毎日明るくハッピーに過ごしている人は絶望「していない」と思いますよね。その人は「不幸」じゃないのだから、もちろん、絶望しているわけないのだと。
しかし、それは誤りです。ハッピーな人も絶望している可能性があります。というか、ハッピーな人ほど確実に絶望しています!!! というのも、ハッピーな人は毎日ハッピーなので、わざわざ「絶望しないぞ!」という選択をしないからです。

もし絶望していないということが、ただ絶望していないというだけのことで、それ以上の意味もそれ以下の意味ももたないならば、それこそまさしく絶望していることなのである。(p.438)

人間は絶望するかしないかの分岐点にあるとはいえ、「どちらでもない」状態に留まっているわけではありません。絶望ルートに進む"可能性が残っている限り"、自動的に絶望ルートに流れていくようになっています。というのも、「カレーライスを作る」以外の行動をしている時は、カレーライス作りに着手していないので、「作らない」ルートを選択していることになるからです。くまのプーさん風にいうと、「『なにもしない』をしている」のです。


それゆえ、絶望する可能性が消滅した場合でないと、絶望「していない」とはいえないのです。

絶望していないということは、絶望してありうるという可能性が絶滅されたことを意味するのでなければならない。(p.438)


「絶望しないぞ!」という選択は、絶望の可能性を消滅させることでもあります。つまり、一方のルートを選ぶことによって、もう一方のルートに進む可能性を潰しているのです。

この選択をしていないひとは誰でも、ハッピーアンハッピー関係なく全員絶望です!!!! 
この話は第四回でもやるので覚えといてください。

3. 絶望「している」こと:絶望するのは自分のせい!?

このように、絶望「していない」ルートを選択していない人はみんな絶望「している」ルートに入っています。ここから導き出されることは、絶望「している」ルートに入ったのは自分のせいだということです。

しかしこれは、病気にかかったのは自分のせいだ、とか言われる場合とは事情がことなります。というのも、絶望「している」ルートの選択は現在進行形で行われているからです。

よくわたしたちは、たとえば不注意のために人が病を招く、という。そのようにして、病は出現し、そしてその瞬間から、病は力を得、そこでひとつの現実となるが、その根源はだんだん遠く過去のものになっていく。もし病人にむかって「病人よ、君はいまこの瞬間にこの病気を招き寄せているのだ」と[…]言い続けるとしたら、[…]それは残酷なこと[…]でもあろう。(p.440)

たとえば、うっかり病気になってしまった場合は、手洗いを忘れたとか、おなかを出して寝たとか、そういう"過去の"不注意のせいであって、病気になった"今"何かしたせいではないですよね。

しかし、絶望の場合は"今"まさに自分が絶望を引き起こしているのです。先に、絶望「していない」ルートを選択しない限り、"自動的に"絶望「している」ルートに進んでしまうといいましたが、厳密に言うと、"自動"ではなく"自分の意志で"進んでいっているのです。

選択しないことを選択している"各瞬間"ごと、ひとは"自分で"絶望ルートを選んでおり、それによって人は絶望するのであって、"過去の"失敗や不幸な事件によって絶望するのではないのです。

絶望者は、絶望している瞬間ごとに、絶望を自ら"招き寄せつつ"あるのだ。絶望は絶えず現在の時に生じる。そこには現実のあとに取り残される過去的なもの[…]はなんら生じない(p.440)

こうして絶望「している」責任を負わされるのも、全ては人間が「自分の意志で」選択できる存在だからです。これは、永遠に変わらない人間の性質で、そのひとが人間である限り絶対に逃れることはできません

そういうことになるのは、絶望するということが精神の規定であり、人間の内にある永遠なものに関係しているからである。しかも、この永遠的なものから、人間は抜け出ることはできない、いや、それは永遠にできない。(p.440)

人間は常に「絶望するか、しないか」の問いに直面している状態に"おかれていて"、この問いから逃れることは「永遠に」できません! 逃げた場合には「答えないってことはYESってことじゃな?」理論で、絶望ルートを選んだことになってしまいます。絶望を回避するにはとにかく、毎秒毎瞬間ごとに絶望しないルートを選び続けるしかないのです。

実は、絶望しないルートもめっちゃしんどいんで[※2]、これを選び続けるのもすごくつらい。「ダイエットするか、太るか」の二択のようなものです。 ダイエットも辛い、でも太ってるのも嫌だ。でも「なにもしない」なら太るを選ぶことになる…、なにしても地獄って何~~~!!! でもそれが人間~~!!

このように、絶望のヤバさは、絶望「できる」ことから「逃れることが出来ない」という点にあります。「不幸」は外からやってくるものなので、やがては過去のものになるでしょう。しかし、絶望は、絶望しないルートを選択しない限り常にそこに在り続けます。絶望「できる」ことは人間の長所ですが、それはつまり、人間である限り絶望の可能性との対決が不可避であるということでもあります。…いや、本当にデメリット大きすぎない!?

絶望の「逃げられなさ」はまた、絶望が「死に至る病」と呼ばれるゆえんでもあります。絶望が「死」ではなくて「死に至る」病なのは何故なのか、第三回ではその地獄に迫ります! 次回、「絶望は「死ぬほど」しんどい!| 1-A-c 絶望は「死に至る病」である」お楽しみに~!


[※2] 先取りしていうと、絶望しないルートを進むということは「信仰」ルートを選ぶということです。キルケゴールにとって、信仰はいわば「超ハードな幸福ダイエット」幸福の断食です。この道がどれくらい辛く厳しく頭おかしいかということは、『死に至る病』の続編である『キリスト教の修練』で述べられています。
[備考]
訳は『世界の名著40 キルケゴール』中央公論社,桝田慶三郎編,収録の『死に至る病』を使用し、ページ数もこれに対応しています。

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