解説タイトル03

カジュアルに哲学|『死に至る病』編 vol.3 「死に至る病」は死に至らない病!?

「カジュアルに哲学」は、哲学の名著をカジュアルに読んでいくコーナー。
『死に至る病』編第三回は、タイトルの由来が明らかに!
「死に至る病」は実は死に至らない病ってなに!? 絶望が「死に至る病」であることの恐ろしさを感じていきましょう!

[今日読む箇所]
第1部 A 絶望が死に至る病であるということ
c 絶望は「死に至る病」である
[目次]
1. 「死に至る病」は死に至らない病:死んでも死ねない永遠の苦痛
2. 自己は死に至れない:不死者の拷問
3. 自己からは逃げられない:自己について絶望すること(第一回復習)
4. 絶望からは逃げられない:絶望「できる」こと(第二回復習)

1. 「死に至る病」は死に至らない病:死んでも死ねない永遠の苦痛

絶望は「死に至る病」である。では「死に至る病」とはなんでしょうか?
普通に考えれば、文字通り、死に至る病、つまり「最終的に死んでしまう病気」のことだと思うでしょう。

しかし、絶望はそのような意味で「死に至る病」なのではありません!
むしろ、絶望は「死に至ることが出来ない」からこそ「死んでしまう」病より恐ろしい病気となるのです!

絶望の苦悩は、まさに、死ぬことが出来ないということなのだ。[…]したがって、死に"至るまでに"病んでいるということは[…]、死という最後の希望さえも残されないほどに希望を失っているということなのだ。(p.441-2)

たとえば、人が"死ぬほど”苦しんでいて、もう助かる見込みがないとしたら、いっそ死んでしまった方が楽だと思うでしょう。死んでしまえば、もうそれ以上苦痛を感じなくて済むからです。

しかし、「死に至る病」には「死んで楽になる」という希望も残されていません!  たとえ死ぬほど苦しくても、死にません! 死なないので永遠に苦痛が続きます! 死んで逃げることもできません! 残念!
つまり「永遠に死ぬ、死にながらしかも死なない、死を死ぬ」(p.442)病気、それが「死に至る病」なのです。

2. 自己は死に至れない:不死者の拷問

では、絶望が「死に至る(ほどに病んでいるのに死に至れない)病」であるのは何故なのでしょうか。
それは絶望が、決して死なない「自己」が罹る病気だからです。

絶望者は死ぬことが出来ない。「剣が思想を殺すことができないように」、「その蛆はしなず、その火は消えることのない」絶望も、絶望の根底にある、永遠なもの、自己を食い尽くすことができない。(p.442)

絶望で死に至れないのは、絶望の力が弱いからではありません。むしろ絶望はその苦しみによって「自己」を殺してしまおうと思っています。
しかし、自己は不死なので死にません。というより、死ねません
不死者は死なないから死ぬレベルの拷問をかけまくれるとはよく聞く話ですが[※1]、それと同じ原理で、「自己」は自分が不死であるばっかりに、死ぬほどの苦しみを苦しみ続けなければならないのです。

[絶望とは]焼けることも焼け尽きることもありえないもののなかに、即ち自己のなかに絶望によって火が投ぜられたことなのだ[…]。(p.444)

つまり、絶望によって、ひとが生きながら死ぬこともできず永遠と火あぶりになるのは、「自己」という絶対に焼け尽きないものが燃えてしまっているからです。
逆に言えば、燃え盛る「自己」から逃れられば、あるいは「自己」が不死じゃなければ、絶望なんてせずに済むのです。その時には、生きるにせよ死ぬにせよ、苦しみから逃れる希望が残されているのですから。

もちろん、そんなことは出来やしないんですけどね~!


※1  詳しくは『バッカーノ!』を読もう!


3. 自己からは逃げられない:自己に絶望すること(第一回復習)

では、希望を一つずつ潰していきましょう!

さてここに、一人の絶望者がいます。彼は不幸な事件で最愛の女性と死に別れ、まさに絶望しています。
では、彼何について絶望しているのでしょうか?  彼女の死? 不幸な事件? 
いいえ、絶望の炎で焼かれているのは彼女でも村でもありません。「自己」自身です! つまり、彼は「自己」に絶望しているのです!

絶望するものが「何事か」について絶望したというのは、実は自己自身について絶望したのであって、そこで彼は自己自身から脱け出ようと欲しているのである。(p.443)

「自己」に絶望しているというのは、「今の自分」が嫌で、「別の自分」に成りたいと願っている状態のことです。

この場合、彼女と一緒に幸せに暮らしている未来の自分、それが彼の望んだ「別の自分」です。
しかし、彼女と死に別れてしまったのが「今の自分」。しかし、過去を変えることは出来ません。彼は「別の自分」に成ることが出来ず、望まない「今の自分」であり続けなければなりません。これが彼にとって苦痛であり、絶望なのです。

彼はあくまでも自己自身から、彼がそれである自己から抜け出して彼が自分で見つけ出した自己であろうとする。[…]彼がそれであることを欲しないような自己であることを強いられるのは、彼の苦悩である、つまり、彼が自己自身から抜け出ることができないという苦悩なのである。 (p.445)

突然ですが、ここで第一回の復習です。
絶望には「自己であろうと欲しない絶望」「自己であろうと欲する絶望」の二つのパターンがありましたね。

「自己であろうと欲しない絶望」は、カレーとライスが与えられ「カレーライスを作れ!」とシェフから言われているにもかかわらず、カレーライスを作らないでいる状態のこと。

「自己であろうと欲する絶望」は、シェフの言ったとおりにカレーライスを作らず、自分で勝手にカレーライスを作ってしまう状態のことでした。

しかし、これを彼女と死に別れて絶望している人の例に当てはめると、この二つの絶望が結局は同じことを言っていることが分かります。
彼は、彼女と死に分かれた「今の自分」でいるのが嫌で、彼女と幸せに暮らす「別の自分」に成りたいと願っています。


これを、「今の自分」でいるのが嫌だという側面から見れば「(今の)自己であろうと欲しない絶望」になりますし、「別の自分」に成りたがっているという側面から見れば「(別の)自己であろうと欲している絶望」だといえます。つまり、「自己であろうと欲しない」絶望と「自己であろうと欲する」絶望は表裏の関係で、ただ表れ方が違うだけなのです[※2]。

では、何故このような絶望が生じるのでしょうか。
それはズバリ…

こいつのせいです!!

自己のあり方が自分以外のもの(シェフ[※3])によって決められているせいで、自己は望まないカレーライスづくりを強制され、自分で好きなカレーを作ることが出来ないのです。自分で自分の運命を決めることが出来るなら、彼は彼女と死別して苦しむことがなかったでしょう。
つまり、自分だけで自分のあり方を決められないことが、絶望の原因なのです。

絶望の炎が燃え始めても、手足が自由なら、火傷する前に逃げられます。しかし、自己は磔にされているので、ただただ火あぶりになるしかないのです。


※2 どうしてわざわざ絶望を二つ分けたかのといえば、絶望レベルによって絶望の表れ方が異なってくるからです。「自己であろうと欲する絶望」は、自己の持つ「カレーライス(精神)を作る力」を使っているという点で、「自己であろうと欲しない(カレーライスを作らない)絶望」よりもレベルが上がっています。そのため、必要な絶望レベルも上です。詳しくは第六回以降に扱います。
※3 このシェフ(本文中では「(自己を)措定する力」)とはのことです。第二回で少し触れたように、人間が自分で選んでカレーライスを作れる存在であるのは神の愛の結果です。これは同時に、人間は神から与えられた能力を発揮して、カレーライスを作るように義務付けられているということでもあります。この辺はやや複雑なので、シェフのことは、さしあたり、自分ではどうにもできない「運命」のようなものだと考えておけばよいでしょう。

4. 絶望からは逃げられない:絶望「できる」ことの代償 (第二回復習)

さあ、絶望の炎はくべられた!
自己は自己のうちに磔にされていて、炎から逃げることが出来ません! もはや、速やかに死が訪れてくれることを願うほかありません!
しかし! 「自己」はどんなに燃やされても死にません! 絶望の炎が消えるまでエンドレス火あぶりです! ファイアー!

しかし、どうして自己は死なないのでしょうか?
それは、自己が「永遠なもの」だからです。

ソクラテスは、魂の病は、[…]魂を食い尽くすものではないということから、魂の不死性を証明した。それと同じように、絶望は絶望者の自己を食い尽くすことはできないということから、[…]人間の内にある永遠なものが証明されることができる。(p.445-6)

「永遠なもの」とは、さしあたりは、「時間の流れによって変化しないもの」のことを指しています[※4]。
たとえば、私達の身体は時間が経つにつれて変化しますが、「自己」、つまり「私は"私"である」という意識は変わりませんよね。

このように、「私」が変わらずにあり続けることが、「自己」が「永遠なもの」であるということであり、絶望が"永遠の"苦悩となる原因でもあるのです。

一方で、人間が「永遠なもの」をもっているということは、人間の長所でもあります。

人間のうちになんら永遠なものがないとしたら、人間はけっして絶望することができなかったであろう[…]。(p.446)

これは第二回で、絶望「できる」ことは人間の長所であると言われていたのと同じです。
「自己」が「永遠」でなければ、絶望という永遠の苦悩にさいなまされることもなかったでしょう。その苦しみから逃れるために「絶望しない」という苦しい選択を迫られることもなかったでしょう。
しかし、「永遠なもの」をもっているということは、肉体が滅びてもなお残り続けるものがあるということでもあります[※5]。それは、人間に与えらっれた最高のアドバンテージでもあるのです。

自己を持つこと、自己であることは、人間に与えられた最大の譲与[…]であるが、しかし同時に、永遠が人間に対してなす要求だからである。(p.446)

つまり「永遠なもの」は、人間に「絶望しない」でいることを要求し、さもなければ人間を絶望という永遠の苦痛の内に"永遠に"縛り付けてしまうものですが、一方で、人間に永遠の栄誉を与えるものでもあるのです。

そういうわけで、絶望は「死ねない、終わらない、逃げられない」病気、つまり「死に至る病」なのです。こわいね~!
ところで、「絶望はこわいけど、一部の人だけが罹る病気だし、別に自分には関係ない」とか思っていませんか?
残念! アンティ=クリマクス先生に言わせれば、99.9%の確率であなたも絶望しているんです! 次回「みんなみんな絶望!|B この病(絶望)の普遍性」をお楽しみに~!


※4 「永遠なもの」という概念は、『死に至る病』の中で特に重要かつ難解な概念のひとつです。詳しい説明は『死に至る病』にはほぼ出てきませんが、別の著作(『不安の概念』や『非学問的あとがき』など)を参照するに、「永遠なもの」は「自己を一貫させるもの(目的)」「変化しない」「思想に関係する」などの特徴を持っていると考えることは出来ます。この「永遠なもの」と「自己を措定する力(神)」の関係については色々と検討すべき問題があるのですが……、複雑になるので端折りました。
※5 『死に至る病』では、死後の世界や魂の不死などがなかば前提されているところがあります。特に、死後の審判に関する記述はしばしば見られ、絶望やその進化系である罪から自己が逃げられないのも、まさに死後に自己が裁かれるせいです。そう考えると、「あの世」を信じてない人にとっては、絶望って別に「死に至る病」じゃないんじゃ…? はてさて…どうなんでしょうねえ……。



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