解説タイトル01

カジュアルに哲学|『死に至る病』編 vol.1 絶望ってどんな病気?

「カジュアルに哲学」は、哲学の名著をカジュアルに解説していくコーナー。
第一弾はキルケゴールの『死に至る病』。
絶望は「死に至る病」。でもそれってどんな病気? どこが悪くなるの? キルケゴールと一緒に絶望のことを考えよう!

[今日読む箇所]
『死に至る病』セーレン・キェルケゴール
第1部 A 絶望が死に至る病であるということ
a 絶望は精神における病、自己における病であり、したがってそれに従って三つの場合がありうる。絶望して、自己をもっていることを自覚していない場合[非本来的な絶望]。絶望して自己自身であろうと欲しない場合。絶望して、自己自身であろうと欲する場合。

1. 絶望病院へようこそ!:絶望という病気を知ろう

『死に至る病』は、ざっくりいうと、絶望という病気をお医者さんが診断していく本です。「絶望とはどんな病気なのか」「どうやって発症するのか」「進行度はどれくらいか」「治すには何をすればいいか」などなど、お医者さん・アンティ=クリマクス(※1)による診断が語られていきます。
さて、体調不良を訴える人に対して、お医者さんが初めにすることは、「それが何の病気なのか」「どこが悪いのか」を特定することでしょう。『死に至る病』も同様に、絶望がどんな病気なのかをまず初めに明らかにします。

※1 アンティ=クリマクスとは、キルケゴールのペンネームの一つであり、『死に至る病』の架空の著者(キャラクター)です。超厳しいキリスト教徒という設定

2. 絶望は「精神」の病気:精神ってどうなってるの?

絶望で悪くなるのはどこか? それはズバリ、精神です。でも、精神って何? という方向けに、優しいアンティ=クリマクス先生は最初にちゃんと説明してくれます。

人間は精神である。[…]精神とは自己である。[…]自己とは、一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である。(p.435)

やさしくねえ~~~!!!!
「関係それ自身に関係する関係」って何よ…「チャウチャウとちゃうんちゃう?」みたいな語感しやがって
それはさておき、「関係それ自身に関係する関係」とはどんなものでしょうか。これを理解するためにまずは「カレーライス」の話をします。

3. 精神の構造:精神は「カレーライス」

アンティ=クリマクスによれば、人間は相反する二つの要素が組み合わさってできています。自由に行動できるけど、自然法則にはしたがって至り、可能性は無限だけど、才能には限界があったり、などなど。
つまり、人間とは「カレーライス」のようなもの。カレーとライスという異なる二つの要素の組み合わせなのです。
しかし、ただ二つのものが組見合わさっているだけでは、「関係」があるだけで「関係それ自身に関係する関係」ではありません。さしあたり、それは「消極的統一」、つまり「カレーとライスのセット」にすぎません。

ふたつのもののあいだの関係にあっては、その関係自身は消極的統一としての第三者である。そしてそれらふたつのものは、その関係に関係するのであり、その関係においてその関係に関係するのである。(p.436)

ここで、カレーとライスはそれぞれ、「カレーとライスのセット」に「セット内容」として関係しています。それによって「カレーとライスのセット」という関係が出来上がっています。

ここでは、カレーとライスは同じお盆にこそ乗っていますが、まだお皿は別々です。「セット=ひとつ」であるという自覚が足りてません。友達以上恋人未満ってところでしょうか。
「カレーライス」になるには、カレーとライスが同じひとつのお皿に盛りつけられる必要があります。その場合、すでにある「カレーとライスのセット」という関係に手を加えること、つまり関係に関係することになります。カレーとライスを「ひとつの皿に盛りつける」ことこそ、「関係それ自体に関係すること」なのです。

これに反して、その関係がそれ自身に関係する場合には、この関係は積極的な第三者であって、これが自己なのである。(p.436)

「関係それ自体に関係すること」によって完成する「カレーライス」は「積極的な第三者(統一)」です。友達以上恋人未満の壁を越えて、カレーとライスは結ばれたのです!! 結婚おめでとう!!

人間も同様です。自由と必然という異なる二つのものが、ただ同じ人(お盆)の中に入っているだけでは、ただの「自由と必然のセット」に過ぎません。精神とは、自由と必然が一つのお皿に盛りつけられたものであり、むしろ「一つのお皿に盛りつける(=関係に関係する)という関係」なのです。

4. 絶望の原因:「カレーライス」からは逃げられない

でも、カレーとライスをわざわざ一つのお皿に盛りつける必要ってあるんでしょうか? お皿別々の方がいい人もいますよね?
アンティ=クリマクス先生に言わせれば、カレーとライスは絶対に一つの皿に盛りつけなければなりません。何故なら、「カレーとライスのセット(人間)」は「カレーライス(精神)」になるべくして作られたからです。

それ自身に関係する関係が他者によって措定されたものである場合には、その関係は[…]その関係全体を措定したものに関係している。(p.436)

このように、「カレーライス」作りが義務付けられていることによって、また一つ別の関係が生じます。それは、シェフ(他者)との関係です

シェフオススメの食べ方に従って「カレーライス」を作る時、そのひとはカレーとライス以外にシェフにも関係しています。というのも、そこには「ひとつのお皿に盛りつける」以外にも、「シェフの教えに従う」というひと手間(関係)が加わっているからです。「カレーライス」は、わたしたちがカレーとライスを一つのお皿に盛りつけること(関係に関係すること)によって出来るものであると同時に、シェフの教えに従うことで出来るものでもあるのです。これを難しく言うと以下のようになります。

このような派生的な、措定された関係が人間の自己なのであって、それはそれ自身に関係する関係であるとともに、それ自身に関係することにおいて他者に関係するような関係である。(p.436)

早口言葉かよ。

絶望の原因は、このように「カレーライスが義務付けられている」ことのうちににあるのです。

5. 二つの絶望:「カレーライス作りたくない!」「これがおれのカレーライスだ!」

さて、絶望が発症するところの精神とは以上のようなものでした。つまり、「一つのお皿に盛りつけるようにシェフに決められているカレーとライス」が精神なのです[※2]。

※2 厳密には、「カレーライス」として出来上がったのが精神なのであって、それ以前の「カレーとライス」は真の精神ではありません。しかし、文中ではいずれの状態も精神と呼ばれています。

では、絶望とはなんでしょうか。それは「カレーライスが出来てない」状態です。これには二つのパターンがあります。

まず一つ目は、「カレーライス作りたくない!」というパターン。これは、「自己自身から逃れようとする絶望」と呼ばれます。ここでは、「カレーとライスは別々のままがいい…」とか「カレー食べたくない」みたいに、「カレーライス」を作ること(自己)から逃れ出ようとします。「私ってほんと馬鹿…もっといい人間になれたらいいのに…」みたいな絶望はこれに入ります。

二つ目は、「これがおれのカレーライスだ!」というパターン。これは、「自己自身であろうと欲する絶望」です。ここでは「おれの考えた最強のカレーライス(自己)」を作っている状態にあります。

でも、これって絶望しているんでしょうか? むしろ、自己肯定感が高くて、ハッピーなようにも見えますよね?
しかし、やっぱりこれは絶望なのです。というのも、「カレーライス」はシェフの教えに従って作るものだからです。
「おれの考えた最強のカレーライス」は、シェフの示した「カレーライス」を無視して勝手に作られたものです。その場合、「(シェフの示した通りの)カレーライスは出来ていない」のであって、それゆえ絶望状態にあるのです。

これら二つの絶望に共通するのは、シェフの教えを無視する「わがまま」だということです。カレーライス作りたくないのも、勝手に創作カレーライス作り出すのも、全部わがまま。つまり、「カレーライスが出来ていない」のは自分のせい絶望している人は、絶望を自分で引き寄せているのです。このことは、第二回で詳しく触れます。

6. 絶望を治すには:「カレーライス」作ろう

絶望は「カレーライスが出来ていない」状態であるとすれば、絶望が治すには「カレーライス」を作ればいいのです!
もちろん、ただ作ればいいわけではありません。勝手にカレーライスを作ってしまったら、「これがおれのカレーライスだ!」型の絶望にはまってしまいます。
ここで重要なのは、「カレーライス」を作るにはシェフ言うことを聞かなければならないということ。つまり、絶望を治すためには必ずシェフが必要なのであって、自分一人ではどうにもならないのです。

[自己自身であろうと欲する絶望という]公式こそ、全関係が他者に依存していることの表現であり、自己は自己自身によって均衡と平安に達しうるもの[…]でもなく、自己自身と関係すると同時に、全関係を措定したものに関係することによってのみ、それ[平安]に達することが可能であることを表現するものである。(p.436)

なので、自分独りで「カレーライス」作るぜと思っても、それは無駄な努力であって、むしろ絶望を深めることになります。

ただひとり自分自身の力だけで、絶望を取り除こうとするとすれば、その時彼は、なお絶望の内にいるのであって、[…]ますます深い絶望の中へもぐりこむばかりである。(p.437)

つまり、絶望が治った状態というのは、「シェフにしたがってカレーライスを作っている[※3]状態です。これを難しく言うと以下のような定式になります。

自己自身に関係し、自己自身であろうと欲することにおいて、自己は、自己を措定した力の内に、透明に、根拠を置いている[自覚的に自己を基礎づける]。(p.437)

必要なのは、「カレーライスを作ろうという意欲(自己自身であろうと欲すること)」と、「シェフの教えをちゃんと聞くこと(自己を措定した力の内に根拠を置く)」こと。これで絶望は完治! みーんなハッピー! お疲れさまでした~!

…と、ならないのが絶望の難しいところ。というのは、絶望しないのがいいというわけではないからです! 次回!** 「第2回 絶望は不幸じゃない!?|A-b 絶望の可能性と現実性」**をお楽しみに!


※3 「カレーライスを"作っている"」と現在進行形にしたのは、精神は「一回作ったらそれで終わり」になるものではないからです。精神は時間の流れの中にあって、常に変化にさらされているのです。この点については、また別の回で深く掘り下げます。

[備考]
訳は『世界の名著40 キルケゴール』中央公論社,桝田慶三郎編,収録の『死に至る病』を使用し、ページ数もこれに対応しています。


面白いと思ったらスキやサポートしてくださるととっても嬉しいです!!