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トーマス・マン『魔の山 第7章(おわり)』読書会 (2023.5.19)

2023.5.19に行ったトーマス・マン『魔の山 第7章』読書会 の模様です。

4ヶ月に渡ってみなさんと読みました。魔の山を無事登頂して下山しました。お疲れ様でした。

メルマガ読者さんの感想文はこちら

シューベルト『冬の旅 菩提樹の歌』の解説 参考記事

八王子ひげだるまさんが作成してくれた人物一覧です。

トーマス・マン「魔の山」登場人物一覧表 第七章からの登場人物と主要人物


解説音声です。


私も感想を書きました。


 『人物』であること


ペーペルコルンは、植民地で一代で財を成した実業家だったのだろう。オスのライオンのような精力的なプレゼンスで、周囲に支配者的な空気を醸し出す「人物」である。

 セテムブリーニは、ペーペルコルンを俳優のような大げさな身振りをする木偶の坊としてみていた。彼が愛する知性のようなものは、ペーペルコルンにはなかった。その代わり、情熱があった。そして、やっぱりモテるのである。

 「人物」であるというのは、一体なんなのか、分析、説明するのは、難しい。

 ハンスも、セテムブリーニも、ナフタも、ペーペルコルンに比べれば、小さな人物である。理性偏重で、高慢ちきで人情味が薄い。教育者然として、人に接して影響を与えたがる傾向がある。私自身もそういう傾向が強いので、彼らのことはよくわかるし、彼らが必死に隠そうとしている弱点のこともよくわかる。つまり、人間として小さいのである。

 人間として小さく、男性としての器量がない。そういうことは、マダム・ショーシャみたいな女性は一発で見抜くのである。

 ヴェーザルに至っては、ノミのような器量である。自分の小さな器量が、ショーシャに見向きもされないことを苦にして、夜な夜な、彼女にビンタされたあげくに、唾をひっかけられる夢を見ると告白するほどである。(P.480)

 ハンスと、マダム・ショーシャは、男女の関係があったのだろうか。私は、おそらく「二人の間には、なにもなかった」と思うのだが、ハンスが、一線を越えることがあったかのように振る舞い、ヴェーザルも、ハンスと彼女の間にそういうことがあったかのように信じて、ペーペルコルンもそうであったかのように信じるふりをして、同じ女性を愛したもの同士で義兄弟の契りを結ぶという、なんだか曖昧なままの煮え切らない展開であった。この意味が、いまだによく理解できない。

 なんかハイティーンのカップルの噂をしているようで、自分に関係なければ、どうでもいい話なのだが、ハンスとショーシャの関係を勘ぐらざるをえない、このモヤモヤ感、ここを執拗に醸し出す表現を重ねる、トーマス・マンの、こういっては失礼だが、back numberの『高嶺の花子さん』という曲を思い出させるような、彼自身のモテない感じが、なんとも切なかった。

 しかし、これこそ小説家の業(ごう)であると思う。モテたら小説なんか書かない。『トニオ・クレーゲル』ではないが、ハンスとインゲの世界から疎外されているから、小説を書くのである。しかし、モテることより大切なことが世の中にある。ハンスが、魔の山を降りたのは、彼にとって命より大切なことに気づいたからだろう。

 ペーペルコルンが自殺したあと、マダム・ショーシャはどこへ行ってしまったのか? それが気にかかった。

 彼らが、男女の関係だったら、その後も、マダム・ショーシャとの関係が何らかの形で続くということが描かれるはずだと思うのだが、義兄弟の契りを結び、マダムショーシャ自身とも、ペーペルコルンを守る同盟を結んだ以上、ショーシャがベルクホーフを去れば、それっきりであった。彼女はどこかのサナトリウムで死んだのだろう。

 読者にも尻尾をつかませないという意味では、ハンスは、確かに食えない青年であった。そういう青年の最期を見届けるという読書体験によって、私も自分自分の、もう中盤に差し掛かった人生について、反省した。

 結論としては、私は、せいぜい、セテムブリーニくらいの人物にしかなれない、ということである。

 (おわり)

読書会の模様です。



お志有難うございます。