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スタインベック『怒りの葡萄 下』(20章から最後まで)読書会(2023.10.6)


2023.10.6に行ったスタインベック『怒りの葡萄 下』(20章から最後まで)読書会もようです。

メルマガ読者さんの感想文はこちら

解説1

https://youtu.be/53fiYot7jC4


解説2

解説3

https://youtu.be/hqbi_TvVa0U



スタインベック『怒りの葡萄 上』(19章まで)読書会(2023.9.1)

私も感想を書きました。

大きなたましいのひとかけらである自分

トムの言う「大きなたましいの小さなひとかけらである自分(P.389」が何を意味するのかを考えさせられた作品だった。

住み慣れた土地を追い出され、家族みんなでカリフォルニアに移住するために家財道具となけなしのお金をもって自動車で出発したが、じいさんばあさんの死から、家族はだんだんバラバラになる。

今まではお父に従順だったお母が、お父に代わって精神的支柱となり、長男のトムとともに、家族の難局を乗り越えようとするも、厳しい現実にうちのめされる。

ハンナ・アーレントは、『人間の条件』のなかで、古代アテナイのギリシア市民は、プライヴェート=私的領域を、生活の必要物に従属した、人間として欠けている状態と考えていたことを指摘している。

確かに、お母は、毎日食事を作り、家族の世話をしている。しかし、それは人間らしいというよりは、自分と家族の生命をつなぐための必要物に従属しているだけと言えないこともない。

現代の金融資本システムは、常に人間を借金まみれにして、人間を必要物に従属させ、、プライヴェートに閉じ込めるように迫ってくる。政治活動というのは、生活の必要物を満たして、余裕のある人間にしか許されない活動である。 
現代の日本人のほとんどが政治に無関心なのは、生活の必要に従属していて、政治活動をする余裕がないからだ。

生活が逼迫しても、すぐに政治活動に駆り立てられるわけではない。
ピケ隊を組織してストライキをしても、明日食うものがなければ、政治活動は続かない。ケイシーのように身寄りがなければ政治活動に全身全霊で打ち込むだろう。ただ、社会主義や共産主義のイデオロギーによる団結も、金融資本システム側の支配者による分断統治という反転攻勢の前には、もろい。皮肉なのは、資産と秩序を守るために自警団を組織して、渡り人を排除する人々も、もしかすれば、明日は、金融資本システムの車輪の下であることだ。

民は忍耐によって、神の力によって、生き続けようとする。お互いに助け合い、貧しいものが自分の与えうる最後の一つを分け与えながら、生命を維持していく。お母は腕の中に一生を抱き、自らが流れとなって民の中で、家族の中で生き続けることを信条としている。(P.401-402)

ケイシーは伝道師の立場から政治活動へとうって出て殺された。トムも、ケイシーの政治活動に触発され、家族のもとを去って、戦うことを決意する。

残された家族に容赦なく洪水が襲う。ラストシーンのロザシャーンの優しさに涙しながらも、この家族がその後どうなったか、想像するのは難しい。

トムとその家族は、「大きなたましい」と一体となって、生き延びることができたのだろうか? 

(おわり)

読書会の模様です。


お志有難うございます。