見出し画像

こんなに冴えない俺が、メタバース読書会で異世界転生して、圧倒的なリテラシーを身につけた件

メタバースが大流行の兆しである。

オンライン上の三次元仮想空間での活動が、2022年以降本格化するという。

ほんまかいな、という印象である。

スポーツ観戦、オンラインゲーム、ショッピング、アートの展示などなどがこの仮想空間上で行われるようにようになるらしい。

私も読書会を主宰している手前、関心がある。

メタバースは、meta=超、univerese=世界、現実世界を超える世界という意味らしいが、私はてっきり、ハッピーバースデーのbirth=誕生だと思っていた。

つまりもう一回仮想空間の中で生まれ直すということだと、てっきり思っていたのであります。

しょうもない人生をもう一回やり直すチャンスがメタバースということなのかと思っていました。


だからメタバースというのは、万馬券を当てたいとか、宝くじで5億円当てたいとかいう人生の敗者がラストチャンス叶える的な、サービスだと思っておりました。

ここで、話はややそれる。

バーチャル美少女受肉おじさん(バ美肉おじさん)という言葉がある。

YouTube上で、アバター(仮装キャラクター)に生まれ変わり、ボイスチェンジャーという音声変換装置を使い、女性の声で会話しながら、ゲーム配信や雑談配信をする殿方のことを指す。

れっきとした性倒錯だと思うが、子供の頃から男の子というのは、仮面ライダーやウルトラマンなどアクションヒーローになりたいという変身願望があり、それが齢を重ね、若さを失い、様々な挫折を通じて、等身大としての自分の限界を知り、世間の評価も定まり、人間として肉体的にピークアウトすると、なんと、美少女キャラクターに変身して、同性カラチラホヤされたいという、倒錯が深まるらしいのだ。

母の日になぜカーネーションを贈るかというと、キリスト教において受肉を指す「インカーネーション」という言葉に由来していると思うのですが、聖母マリアが、処女懐胎によってイエス=キリストを産んだことが、神を人間の体に受肉したということらしいのです。

(以上、私の適当な知識による仮説です。)

受肉というのは、神が人間の形で現れるということです。聖体拝領というカトリックの秘蹟(サクラメント)があります。

ぶどう酒とパンを食べる儀式が、神であり人であるイエス=キリストを受肉するという意味なのでしょう。

じゃあ、バ美肉おじさんは、一体何を受肉したのかということですが、まさか、天照大御神を受肉しているとは思えませんが、それに似た、なんか聖なるものを美少女キャラと認識して、受肉しているのでしょう。

極めて宗教性の強いしぐさと言えるかもしれません。

受肉というか、瀆聖です。下劣さの中で、何かに生まれ変わるという、極めて卑しい、気持ち悪い感触が、「受肉」というワーディングに醸し出されています。


こういう適当なこと書いてると、サブカル評論家が社会学や民俗学や宗教学を悪用して、学問的なもっともらしい仮説を立てて、承認欲求を満たしているような気持ち悪さが私の文章から出てしまい、宝島のムック本じゃないんだからやめとけという私の良心の声が聴こえてきます。


だから、「バ美肉おじさん」の考察は、もうやめます。


(私は、別にバ美肉おじさんを批判しているわけではありません。好き勝手やったらいいと思います。表現の自由でしょう。ただ世間は気持ち悪いと思っているとは思いますが。)


急に語尾が「ですます調」になって、読者に対して馴れ馴れしくなったので元に戻す。


メタバースで何を仕掛けるかというのが、今年以降、少額予算でスタートアップする際のキモになっていると思う。


私はメタバースでアバターを使って読書会を企画するという、これまたベタなことを想像してみる。


実際に一堂に会して読書会するより、ハードルが低いし、Zoomでワイプで抜かれた何人かの参加者の顔と読書会を催す味気なさよりは、VRを利用して三次元空間で、アバターを使ったほうが、臨場感はあると思う。


ただやりたいかといえば、そんなに食指が動かない。


今の形式でYouTubeライブを使って感想文を読み上げるというのは、もう、イタコがトランス状態で何かブツブツ語ってるものであって、読書会と言えるのか、私自身は、申し訳ないことに、はっきりいえないのである。


読書会はこうあるべきだと私もなんともいえないし、今、私がやっている読書会も、みんなうすうす気づいていると思うが、結局、私の独善的な表現欲求に公共性を持たせているだけのフシもR。


そもそも、アバターを利用して、フラットに、読書会を通してメンバーとざっくばらんなコミュニケーションとりたいなどとは、思っていないからめんどくさく感じるのである。(それを言っちゃおしまいだが)


参加してくれたアバター同士のトラブルもコントロールの範囲外なので、結局、オペレーションが大変である。

そうなると、現実の読書会と変わらないのである。

まして、アバター同士であると信頼関係を結ぶのが、現実世界よりも難しい気がする。


性別も年齢も仮構されアバターと、課題図書を通して、生身の人間の人生や生命、つまりライフについて真剣に話し合うというのも、倒錯であり、脱力ものである。地獄の亡者の繰言のようである。


結局、メタバース読書会は、主宰者の強烈なイニシアチブのもと参加者が、信者化するという、オンラインサロン的構造に落ち着くだろう。


それでは開かれた読書会とはいえない。


実は、読書会当日に向けて、地道にコツコツ課題図書を読んでいること自体が、読書会のキモである。


アバター同士の毛づくろいなど、読書の本質である、「読みながら思考して、リテラシーを鍛錬する」という営みとはなんの関わりもない。


だとすると、メタバース読書会に参加している知的な自分が大好きというところにいたるのである。そして、自分は大好きだけど、まだ本気出していないだけ、というナルシシズムをこじらせるだけである。


それだと、実際は、オンラインサロンの養分になっているにも関わらず、参加して、金の切れ目が縁の切れ目で有名人と知り合いになった気になり、そんでもって、夢に向かって一歩前進、私は日々成長しているのであります、などと錯覚しているのワナビーと変わらない。


かのようにして、メタバースにワナビーの溢れかえる地獄絵図の完成である。


色々考えてみたが、メタバースは、しょせん子供だましであり、自分自身であろうとしない絶望の一形態であり、死がなければ、復活もないのであり、結局そんなに、流行らねえんじゃねえか?


ということでした。


(おわり)

参考記事

製造業こそ「メタバース」に真剣に向き合うべき

















お志有難うございます。