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ゴダール監督『軽蔑』4Kレストア版を観てきた(2024.3.29)

4Kレストア版の『軽蔑』を観てきた。

学生時代にビデオで見たときは、目の部分を青く塗ったネップチューンとかオデュッセイアだとかの彫像のアップに、ヴァーンッ、て音が鳴るのが、かっこいいなと思った程度だったが、今回、映画館で見て、色々なレイターの重なった複雑な映像作品だというのがわかった。

原作は、モラヴィアである。イタリアの三島由紀夫みたいな耽美的な作家である。浮気や不倫が当たり前の戦後のブルジョワ階級の拝金主義的生活を暴くみたいな作風だった気がする。

本作のあらすじは、ミッシル・ピコリ演じる脚本家が、ジャック・パランス演じるアメリカのプロデューサーに頼まれて、撮影中の『オデュッセイア』の脚本のリライトをしている。

ジャック・パランスは、ピコリの妻で金髪パリジェンヌ、ブリジット・バルドーが一発で気に入り、プロデューサーの権力で彼女を口説きまくる。ピコリはそれに見て見ぬ振り。ピコリが仕事欲しさに、妻をプロデューサーに売ろうとしているのではないかという、もやもやした展開が続く。

また、ピコリでパランスの通訳件秘書のコケティッシュな女性に惹かれている。この秘書は、かがまされて、背中で小切手書かせられたり、ピコリにケツを触られたり、今ならキャンセル確実の、雑な扱いを受けている。

ゴダール映画が、わりかし女性を雑に扱っているのは、現代の人権意識に照らすと、やはり、厳しいなあ、とも思った。

映画撮影は難航し、ピコリ&バルドー夫妻はどんどん仲が悪くなっていき、アパートで喧嘩する。延々続くアパートの喧嘩シーン。バルドーが黒髪ショートのウィッグをかぶるのだが、これが全然似合っていなくて、ブスに見えるのである。

4Kで見てわかるのは、バルドーの顔の印象や、肌の質感が、シーンごとにバラバラで、綺麗に見える時と、もしかするとブスじゃね、と思うシーンが交錯して、同一人物と思えないことである。

なんだか、監督のゴダールが、機嫌が悪くなると、逆立ちしてBBの機嫌をとってたという有名な逸話どころじゃない、大変な現場だったのじゃないかと推測せざるをえない。BBは体調も情緒も不安定すぎるだろうと思った。でもこれが生身の人間のやることだと思えば、そこもすごいのかもしれない。

ピコリが、パランス邸に招かれて、BBとパランスのコンパーチブルを追いかけて、タクシーで遅れて行ったら、パランスとバルドーの間で何かチョメチョメあって、バルドーがピコリに妙によそよそしくなるシーンの演技が、トルストイ的というか、志賀直哉の『雨蛙』のような繊細な描写力で、素晴らしかった。


こういう話がベースなのだが、ゴダールはいくつかのレイヤーを重ねている。

フリッツ・ラング監督が本人役登場しており『オデュッセイア』を映画化している。ピコリから、ラングは、1933年にゲッペルスが訪ねてきたとき、ドイツを離れる決心をしたという話が紹介される。しかし、そんなファシズムへの抵抗運動に何にも興味のないアメリカ人パワハラプロデューサーのパランスは、お色気シーンをもっと入れて大衆にわかる映画を作るように、ラングやピコリに求める。

要するに、ラング監督に対してパランスを悪者にすることで、ゴダールは、拝金主義のハリウッドに、嫌味を言っているのである。

ラッシュの試写会で、パランスは映画の芸術的な内容にブチギレて、缶に収められているフィルムを円盤投げのように投げる。そのときスクリーンの下に、ベルトルト・ブレヒトの異化効果みたいな感じで、スクリーンの下に、「映画に未来はない」みたいな格言が書かれているのである。

えー、これブレヒトを意識したの? と私は思ったが、その後、ラングからも「BB」ことベルトルト・ブレヒトの格言が口にされ、その「BB」がブリジット・バルドーとかかっているという、どうでもいい言葉遊びが、会話の中で応酬されるのである。この辺のレイヤーが、じわじわ心に沁みた。


そして私は、ブリジット・バルドーを見ながら、和製バルドーこと加賀まりこ先生をしきり思い出してしまった。だが、和製ジャック・パランスこと、塩見三省忘れないでほしい、とも思った。


塩見三省とジャック・パランス、似てるんじゃね?


和製BBと黒髪が似合わないBB


ラングのセリフが面白くて、パランスに食事に誘われて「私を外に含めてほしい」といって食事を断るシーンなど、面白かった。ヘルダーリンの詩についてBBに秘書にうんちく語るシーンもよかった。ラングの佇まいも良かった。

ここまで書いたら、集中力が切れたので、また追記したいと思う。
とりあえず擱筆。

(おわり)





お志有難うございます。