トーマス・マンの『魔の山 第6章』読書会 (2023.4.21)
2023.4.21に行ったトーマス・マンの『魔の山 第6章』読書会のもようです。
八王子ひげだるまさんが作成してくれた人物一覧です。
トーマス・マン「魔の山」登場人物一覧表 第六章からの登場人物と主要人物
解説音声です。
トーマス・マン『魔の山』解説 人文主義者セテムブリーニの説く「精神と自然の対立」
トーマス・マン『魔の山』解説 「ワルプルギスの夜」について
トーマス・マン『魔の山』解説 ナフタとセテムブリーニの論争「第一次世界大戦前のヨーロッパ』
トーマス・マン『魔の山』解説 ナフタとセテムブリーニの論争「科学的真理が人間を堕落させた」
トーマス・マン『魔の山』解説 ナフタとセテムブリーニの論争「神の国を実現する手段としての恐怖政治(テロル)の肯定」
私も書きました。
『反動』という概念
第一次世界大戦の最中に、革命が起こり、戦争に負けたことでプロシア主義はご破算となった。
この作品が発表されたあと、ドイツは、ワイマール共和国の時代を挟んで、ナチスの台頭によって急速にファシズム化する
本作を読んで、ドイツ人の汎ゲルマン主義やプロシア主義といったナショナリズムについて、日本のポピュリズム的右傾化と比較して、考えてしまった。
(引用はじめ)
真の自由と人間性に到達するためには『反動』という概念にびくびくしなくなることが第一歩です。(P.109)
(引用おわり)
ナフタの思想を逐一追えば、反動以外の何物でもない。神権政治を実現するために、私有財産制を禁止して、人間を自己犠牲によって奉仕する無名の共同的な存在に変えることを、ナフタは主張する。
日本にナフタみたいなのが現れたとすれば、天照大御神に続く皇統を軸とした神の国を実現するために私有財産を否定するといった、思想になるだろう。
これは、戦前の農本ファシズムみたいなものに限りなく近い。よって、プロシア主義は日本の極右思想と相似形を描いている。まあ、ただ、日本にはイエズス会のような厳格に組織的な宗教団体がない。古事記、日本書紀は、聖書のように啓典たりうるのか、という思想的な限界もある。
ナフタの思想が、ナチズムの台頭をどの程度予見していたかは、詳しく検討しなければわからないのであるが、ナフタは信用貨幣を否定し、私有財産制も、それに基づく近代経済学も金融資本主義も否定しているが、ナチズムは統制経済によって軍需関連の生産を国家レベルで管理しながら、効率的に信用貨幣を発行して、膨張していったという一点で、ナフタの経済思想とは全然違うのである。また、ナフタは、イエズス会のニッケルの言葉を引いて、民族国家を悪疫として否定している(P.184)ので、民族主義者ではない。ただ、狂信的な全体主義者であることは、ファシスト的である。
ナフタのような論客を想定していない点で、日本のリベラルの見識は、セテムブリーニ以下で、『魔の山』を現代の視点から批判的に読むなどという知的訓練が欠けており、『反動』に対処するすべがないので、第二次安倍政権以後の反動の時代に、自分たちも反動的な政治勢力に成り下がって、権威主義の片棒を担いでいる。
目下、手の施しようのない反動の時代に、人間性や自由を擁護するのは、自分の無力をかみしめるようで、大変辛いのである。
反動の時代は、服従と統制を理念にすり替える。
ヨーアヒムの死は、気の毒ではあるが、まだ人間的であった。軍人たることを諦め、片思いしていたマルシャとの会話を楽しむこと(P.328)で現世への暇乞いもした。
しかし、反動の時代の死は、ゴシック的な苦悩の強調に皆が甘んじて、人間らしい尊厳を奪われて、死んでいくことである。反動の時代の死は、のちのナフタの最期である。
生きることが服従と統制の中であり、死が、人間の生命の無意味を徹底的に味わうような陰惨な経験であることは、強制収容所で死んでいく体験に近い。
反動の時代が目の前にやってきている。そんな気がしてならない。
(おわり)
読書会のもようです。
お志有難うございます。