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知ってることと、知らないこと

これまでというか、ほとんどのキャリアのすべては「多くの人に知ってもらう」ことが一番大切だし成果だと思っていた。やはりたくさんの人に知ってもらえてるって結果が大きい。でも、それが安直すぎたと最近では思うようになった。

僕の大好きな飲み屋というか屋台があった。
昨年の冬の入り口あたり、屋台主が亡くなり今はもうオープンしていない。
そこではいつも決まった人がいて、五人くらいでぎゅーぎゅーな屋台でおでんをつつき、酒を飲む。誰もこの場所を知らないのに、なぜかここに集まる仲間の僕らだけが知っている。それはとても価値があることだと思った。

そこの主は人の好き嫌いがわかりやすく、一度雑誌に出てしまったときには、ニワカっぽい人を本能的に見定めていたように思う。そんなたくさん人が入れないのでニワカで溢れて常連が入れないという状況は確かにこの屋台にとっては重要な問題になる。

選別とは違う、簡単にいうと「この人のことは信頼している」というシンプルな判断が働いていたように思っている。あるプロジェクトで戦略を書くときにふとそのことを思い出した。

たくさん知られて悪くなることもある。
そう思った。誰でも参加できて、誰もが知ってて、成立することの方が多い。でも、そうじゃないケースもある。決まった人しか参加できず、誰も知らず、だからこそ守れるもの。ある意味今までとは違う真逆の制約を貸すことで僕のハードルはグッとあがるが、新しい状況が作れるのではないかと思っている。

そして、閉ざすことで僕らの意志と同じものを宿した人とだけ繋がっていくことができるのではないかと思っている。ほとんどの人は知らない。でも、信頼するあの人たちだけが知っている。なんとなく、これからの価値は誰も知らないけど特定の条件を満たした人だけが知っている環境にもたらされるのかもしれないと思っている。場合によるけどね。

もう数名、僕と会った人は、「この秘密」を共有している。それは思想的であり、同時に実態も成す不思議なもの。そして、他で見たことのない状況になることが少しでも伝わったら嬉しい。僕が信頼する人に会える順番で会いに行っている。あなただから伝える。そんな対話を続けている。

今までのキャリアを疑い、新しい方法を模索する僕の実験のようでもあるけれど、今回の場合、これが一番正しいと思っている。

知ってること、知らないこと。
当たり前のことだけど、この揺らぎをしっかりと見つめている。

Photo by Jens Johnsson from Pexels

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。