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知識を溜めず、泳がせる

昨夜、早く寝ればいいものを深い時間まで次の案件用の関連書籍を読み込んでいた。毎度、現地へ行って予感を得て、関連書籍で情報を追いかけて、繋がりある人に話を聞く。すごい当たり前に誰でもできることなんだけど、これで一気に情報と温度を拾い集めていく。

これら得た知識の整理として、チームメンバーとディスカッションする。
「得た知識を教える」というのは学生の頃、誰かがわからないところを教える行為と似てる。言葉に出して説明することで記憶に定着する。
みんな、昔からやってること。この歳になっても同じことをしている。

僕の人生は定期的に飲み会があるので、飲みの場でも最近得た知識の共有をする。そこからディスカッションになる。飲む相手も自身が得た体験を共有する。それもまたこちらの知識と予感になる。僕が飲み続けるのは、こういう飲み会ばかりだからというのもある。肝臓が壊れないように配慮がいるが。

一番損をするのは、本を読んで終わりにすることだと思っている。
知識は水みたいに生きていて、停滞してると腐っていく。知識は固定化されたものじゃなくて自立する生き物のように思っている。書物で得た知識を考えることや誰かに伝えること、フィードバックを得て再び考え出すこと。これらの循環のなかを知識は生きている。

つまり知性とは、これら知識の循環が人より多く流通させている人に宿るんじゃないかと思っている。知識はパラサイトし、他の思考の芽を植えていく。そうやって人は赤ちゃんの頃の無知から、各々の知性を宿して輸送するキャリアーとなっている。

自身が得た知識を自分の中で育てながら、次の人へ引き渡していく。
その人の中で死ぬ知識もあるかもしれない。しかし、正しい相手に受け渡せたなら、その知識はどこかで大きな花を咲かせるのではないかと思っている。学ぶということは知識を感染させること。感染すると行動が変わる。そして結果が変わる。

知性を宿さない選択もあるのだろう。野生的に生きることと思うが、それもまた違う。野生も知性である。生きることに長けた知識があるから生きる行動に集約されている。

いちばんの無知は無関心である。
ただぼーっと情報を右へ左へ透過させるだけの存在である。
なかなかそんな人にはあったことはないが、考えることも生きることも何も考えてない存在こそがそれに当たると思う。

僕ら人間は、今の時代、無知で無関心でも命の危機はない。
一歩日本を離れれば、サクッと死んでしまうのかもしれない。
でも、僕らは生きたいし、気になって歩みを止めるし、腹も減るし、子孫も残したいと本能に刻まれている。

生まれ持って多くの生き物は学び続ける存在なんだなと思う。
生まれて死ぬだけの人生なのに、欲望も希望もたくさん抱いてしまう。
すごい頑張った!と思ったことでも次の目標へ頑張り続ける。なんで頑張るかもよくわからず本能的にもっといける!と思っている。
どこにいくの?僕もわからない。けど、無関心で停滞し続けることの方がずっと怖いと思う感情がある不思議。

Photo by Leah Kelley from Pexels

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。