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現実ってのは、なかなか手強い

大人になると「現実ってのは、なかなか手強い」なんてことに気づいてしまうのだと思った。わりと僕は大人になり、働きながらお金を稼ぎ、全ての選択が自分の責任下にある…そんな事実に気づいた時「超面白いじゃん」と思えた性格である。でも、そうじゃない人もたくさんいたんだと思う。

のびのびと自分の責任下で選んだことで行動していって、うまく行くことも失敗することもたくさんあった。なんどもガッツポーズをしたし、何度も謝った。うまくいくときはいい、でも結構な打率の低さだ。大抵の失敗で「現実という強敵が現れた!」とたじろぐのだ。

「こんなことやろう!」そう思って、現実をみるとお金や技術や時間という無数の顔を持った「現実」が立ちふさがる。20代の頃、何度かそれでくじけそうになった。そういうとき飲み屋でクダを巻いて「絶対やる、絶対実現してみせる」なんて根拠もない言葉でグツグツ想いを沸騰させる時間で乗り切った。

今でも思うが、現実にステゴロで挑んではいけない。
果てしなく強敵なのだ、現実というやつは。
それを割と僕らは当たり前に日常を過ごす中で現実をスライムか何かくらいの乗り越えられるものとして誤認する。ちゃうねん、こいつ突如として化けるんだよ。それを言いたいための日記だ。

現実ってものを普段はスライム1匹くらいに思っている。
しかし、何かを成そうとする時、この世界は多面的だと思い出す。
実は現実ってのは無数のスライムの群れだ。そいつらは集まるとキングスライムになるように見たことのない存在に変化する。それが現実ってものだ。

現実に油断しているのだ、僕らは。
そして、自分の欲望とかやりたいことに視線を向けるとグッと現実が恐ろしいものに見えてくる。そのうち、そういう想いや視点を出来るだけズラそうとしてしまう。見なかったことにして色々忘れていくことに慣れていく。それが現実に向き合うより、僕はよっぽど怖い。

では、この強敵にどう勝つか。
とても馬鹿馬鹿しい方法だが、自分の沸点を下げずに誰かに語り続けるが今の所、一番の対抗手段だ。

松倉、むちゃくちゃ飲みにいくじゃん。と友人たちは思っている…というか現実だが。膝付き合わせて「こういうことやりたいねん」ということを話している。それと同時に相手の「これやりたいねん」を交換している。お互いに沸点を維持するために熱を与え続けているわけだ。

そして、杯を乾かし合う仲間は僕にはない特別な力を持っている。逆に相手は僕にそれを感じてくれていたら嬉しい。こういった沸点下げない同盟の仲間たちがいることで僕らは現実と戦い続けることができる。知恵と経験と勇気でもってジャンプ的に戦えている。

この仲間がたくさんいることで特殊技能が集まり、強敵だった多面的な現実は、この人がいれば突破できる局面、この人がいれば乗り越えていける課題といったものに力を貸してくれる。同時に僕も別の誰かの想いに加担する。

本当にありがたいことに「よくそんなこと実現できたね」と評価される事実をいくつか作れてこれたのは九割方、仲間の力によるものである。僕の努力といえば想いを絶やさないという役割と打ち上げの用意くらいだ。

なんとなく、今「現実」という強敵とぶつかってる人の少しでも追い風になれたら。くすぶっていたら友達やら誰かを呼んで飲み屋に集まれ。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。