どうせなら、面白い未来を生きたい。

「知れる・体験できる」という当たり前のことは、とても貴重なことなのだと思う。そういう環境にいるとか、身の回りに研ぎ澄まされたものやそれを作る人と会話できるとか。京都や東京といった大きな街にいると結構身近に起きることだが、それが僕が生まれた北海道の富良野とかになると、ほとんどそういう機会はないのだろうと想像していた。

ここ数年、日本の地方都市へ呼んでいただき町を見る機会が多い。
現地の同世代や若い人たちと出会うこともたくさんある。
能力も申し分ない。行動も出来る。しかし、情報がない・機会がない。なので何をすべきかわからなくなる。刺激になる出来事は少ない。なので学びも自然と減ってくる。その現実を聞くと、甘いこと言わないでさ〜とか言えなくなる。もし自分が同じ環境であれば同じことを言うだろうと想像つくから。

今、自分にあるバイタリティは自分で生み出したものではなく、多くが周辺環境からの刺激や学びで誘発されていると気づかされる。その連鎖がムーブメントになっていくのだろう。何かその初動を生み出す「きっかけ」が必要なのだ。それが圧倒的に地方では少ない。きっかけがないと行動がない、行動がないと学びがない、学びがないと成長がない。そうやって地方都市は衰退していく。

その仮説が正しければ、大切なのは「きっかけ」の提供と体験の並走ではないかと思う。今、僕がこの仕事をしているきっかけも高校の頃、文化祭の出し物でクラスの意見が二分されていたときに、「両方やったらいいんじゃない?」という素朴な提案が「そのとおりだ」となり、ひとクラスの合意形成と行動を埋めた経験がある。小さな成功体験だけれど、その感触を覚えていると、それは「できること」に変わっていく。そしてそれを必要とされる仕事についている。

本当に些細なきっかけであれば、僕なんかでも色んな場所へ運び込むことができるのではないかと思う。僕だけじゃなく、あなたも、君も。地方都市より多くのきっかけがある都心部で暮らす人は、それを輸出することが可能だと思う。

ありがたい機会に恵まれて、色々な出来事を作る経験を重ねてこれた。
こう言う仕事もあって色んな世界の仕組みを知ることができた。
そうやって経験してきたことをさまざまな地域で棚卸ししていき、誰かのきっかけになったり、血肉化させていくことができれば、僕や君がいた意味が倍増するのではないか。

そんなことを思いながら祇園をふらふらと歩く。
華々しい服を着たキャバクラのお姉さんが群がっている。
そういえば、社会人になってすごい優秀だなと思う女性たちは、もともとバイトやでスナックやキャバクラで働いていた人たちだった。人間のプロ、対話のプロ。それを別のフィールドで活かしている。

誰もが人生経験の中で特殊技能を持っているはずだ。
自分は何もないなんて絶対思わない方がいい。自分のことは自分が一番気付けなかったりする。そういった固有の経験をさまざまな地域で種として植えることができれば、もっともっと面白い未来になるだろうと思う。

どうせなら、面白い未来を生きたい。
渡せるものは全部渡していこう。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。