思い出を着る
携帯の電波すらギリギリの山奥でアウターのボタンをキュッとしめる。できるだけの隙間を閉じて寒さに備える。
そういえば僕が冬にきるアウターの一番下のボタンがない。どこかでちぎれ飛んで消えてしまった。服の病院で新しいボタンをつけてもらわないとと思いながら何シーズン目だろうか。
僕は着るものにこだわりがない。
好きなものは知人が作った服。それは袖を通す時、他とは違って心地がいい。あの人が作りたかった世界を着るみたい。
僕のほとんどの服は妻がプレゼントしてくれたり、近所のスーパー二階でええのあったでとdigってきたもの。僕の衣服は与えられたもので出来ている。
そして、そういうものをずっと着続ける。
そのシャツ何年着てるの?と言われて気づくくらいシャツはクタクタになっていて、服と自分の歴史を感じたり。なのでなかなか捨てにくい。捨てるときは少し胸が寂しくなる。服と一緒に思い出もきているのかもしれない。
この前、飲み屋でええ服きてるやん!と隣のテーブルのおじさんに言われた。どこのやつなん?って。
うーんとと自分の服から靴まで眺めてみたら全部ライフ(スーパー)だった。ライフっす!って言ったら、しらんブランドやなーとふむふむ言うてて、違う違うスーパーのライフの二階ですよというとケラケラ笑ってた。
いい服の着方だな!と褒められた。
服に着られてる人が多いと。
なるほどな。服を着てるとどんどん自分に近づいていくと感じる時がある。服を着るってどんどん近づき合うことなのかもしれない。
そして、今日もアウター以外はライフコーディネートなのでした。
いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。