常に謙虚たれ。

知的労働も、肉体労働もある。なんだろう、この会社。って自分で重たい荷物を運びながら考えていた。間も無くスタートするAFKことArtists' Fair Kyotoのインストールサポートをしていた。

うちの会社ではクリエイティブ全般を担当している。ものすごい数のプロフェッショナルが関わり出来上がってる高濃度なアート空間だ。たった数日の催しにも関わらず凄い数の来場と、実売が実現している。目の前で、コレクターやそうでない初めてアートを買う人がバンバン作品を買っていく。

こういう状況が日本にあるのか…と関わっていながらも驚かされる。
限られた空間に高圧縮でアートが満ち溢れている。作家本人もそこにいる。議論が巻き起こり、作品を見る目は誰もが真剣だ。「アートはわからない」とか言ってられない状況がここにある。人はわからないものに惹かれるのだなと作品を眺める人の真剣な目を見て思うのだ。

当日は綺麗な格好をしたアーティストも設営ではガンガン手を動かす。
生み出した作品を最高の状態で表現できるように、その眼差しもまた真剣だ。その姿を見て、美しいなと思う。

僕らの仕事もそうだけれど、アウトプットされるものは完成された美しいものとしてリリースする。その背景には9割近い地道な努力と見せない汗水がある。

僕はデジタル広告の領域で若くして色々実績を残せたため、トントンとステージをあげてもらい仕事をしている時期があった。多分少し調子に乗っていたと思う。誰に怒られるでもなく自分で気づけてよかったけど、「あぁ、こうやって消えてくのかもしれない」と思ったときがあった。

面白くするためにはこうしたい。だから、デザインを修正してくれ、プログラムを変えてくれ、と相談するとき自然と上から目線の時があったかもしれない。嫌な顔せず対応してくれる仲間だったから救われたけど、その無言の関係性の中に自分で違和感を感じた。だって机でアイデア考えたり見守ったりしてるだけの人にあーでもないこーでもないって言われたら嫌だなと想像できたから。

僕を育ててくれた最初の会社の先輩たちは、誰一人そういう人がいなかった。みんな努力していた。できることを自分で見つけ、先回りして作り手をサポートしたりリスクヘッジしたりしていた。それを作り手も見ている。だからこそ、ここをこう変えたい。という意見にも理解が及ぶ。汗水を見ているから。だからこそ理解しあって一緒に作れる。

あぐらをかいて、こうして、ああしてという状況は、作り手も仕事なので対応はしてくれる。でも、それは長い目で見ると作り手を機械化してしまう行為になってしまう。汗水垂らし作業し検証し、やっぱりこれ色々考えたけど、こう変えたいです。という方が絶対正しいと思ったのだ。

そう思った時から、僕は現場での雑務も掃除もなんでもやるようにしている。作業着で現場行くので僕を知らない人には施工の人とかサポートスタッフとか思われるときがある。色々荷運びしてるのをクライアントが見て、松倉さん何してるんですか?予算低かったですか?と心配されるときもあった。

この現場にいれるというのは作る仕事の特権でもある。いうてしまえば表に出ない地味な状況だが、それがないと実現しなかった物事を人々は見ている。その裏で重ねられる汗水たらした努力と表の人を魅了するアウトプットを一気通貫して見れるというのはありがたいことだ。

常に謙虚でいようと思っている。
僕の尊敬する人も、全員謙虚だ。実績を評価してくれる声もありがたく頂戴するが右から左へ流れ落ちるようにしている。いっとき嬉しい。それでいい。そう僕は思っている。

僕より10も若いアーティストたちがそれを体現している。
その努力が報われるよう僕らも少しでもいい状況を作っていかねばと背筋が伸びる。常に謙虚たれ。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。