生きながら10代に葬られ〜正しい青春を送れなかった人へ〜第26話

居酒屋のバイトはまだ続けていた。バイトを始めてから一ヶ月経つが、いまだに慣れない。始業前の店の清掃は自分の速度でやれるので、落ち着いてできるのだけど、注文を取ったり、ドリンクを運ぶのは苦手だった。特に辛いのが、乾杯の音頭だ。全てのお客さんに行う乾杯の儀式は苦痛でしかなかった。
「ジョッキを持ってください!今日も1日、お疲れ様でしたー!かんぱーい!」
『かんぱーい!!』
私の声が店内に響くと、合わせて全ての店員も呼応する。
お客さんもノリがいい人は、笑って乾杯をしてくれるが、キョトンとして、何の表情も表さない人もいる。正直、このサービスが客に受けているのか微妙だ。低いテンションを無理にあげるのは拷問のようで、胸がキリキリ痛む。けれど、お金のためなのだと思い、自分を鼓舞する。

「ちょっと、注文いい?」
中年の男性に声をかけられる。
「梅酒ひとつ」
メニューも見ずに注文する客。
「梅酒ひとつ、かしこまりました!」
私はなるべく元気に復唱する。
ドリンクを作るために、キッチンに入る。何十種類とあるドリンクはまだ全て覚えておらず、作る時も壁のレシピを見ながら行っている。梅酒はどれとどれを入れればいいのか、わからずレシピをみるが作り方が載っていない。私はさんざん悩んだが、とりあえず、「梅」と書いてある入れ物の中身を背が高いコップにあけた。「梅」は梅のエキスが入っているのか、それとも、梅酒なのだろうか、それすらわからない。もし、梅のエキスだったらお客さんに酒が入っていないと言って怒られると思い、焼酎をドボドボと注いだ。そして、氷を入れてお客さんに出した。正直これであっているのかわからない。お客さんは背の高いコップを見て、ちょっと不思議な顔をしたが、そのまま飲みだした。
しばらくして、ホールで動いていると、他の店員が梅酒の注文を受けていた。気になってそれを見ていたら、背の低いコップに「梅」の入れ物の中身を注いで氷を入れて出していた。どうやら「梅」の入れ物には梅酒が入っているらしい。私は焦った。私はチューハイ用の大きいコップに梅酒を入れ、さらに焼酎まで入れているのだ。お客さんに言おうかと思ったが、勇気が出ない。クレームが入らないので、そのまま放っておいた。時間は8時を回り忙しさはマックスに達していた。たまに、そのお客さんを見てみるのだが、ものすごいスピードで酔っ払っていた。そのお客さんも出されたものがおかしいと思ったのか、私に向かって手をあげるのだが、酔っているせいでおぼつかなくて、すぐに下を向いてしまう。私はひたすら焦りながら、無視し続けた。これがバレたら店長にめちゃくちゃに怒られると思ったのだ。しばらくしてお客さんはフラフラしながら会計をすませて出ていった。私はホッと胸をなでおろした。

お客さんが食べ残したお皿やコップをガチャガチャと片付ける。トレイに皿を乗せながら、バックへ運ぶ。その時だ、金属でできている排水溝の上で足を滑らせた。
ガラガラガッチャーン!
私はこけて持っていた皿を全て割った。
『失礼いたしましたー!』
他の店員が声を揃えて客に謝る。
私は、またやってしまったと落ち込んだ。実は、いつもこの排水溝の上で足を滑らせてしまい、もう10枚くらいの皿を割っていた。私は店を出て、掃除用具を取りに向かう。店長の視線が痛い。
皿を片づけながら、胸の奥には大きな漬物石がドスンと音を立てて落ちてきた。私は居酒屋の店員すらまともにできない。泣きたくなるのをぐっとこらえる。
「注文お願いしまーす!」
お客さんの声に呼ばれて顔を上げる。
「紅茶ください。ホットで」
ホットの紅茶の注文を受けるのは初めてだった。この居酒屋はドリンクが多すぎる。私はキッチンに行き、紅茶のティーバックを探す。なんとかお湯を探し、紅茶を作る。そして、カップを手にして、ガムシロを脇に置いた。喫茶店になど滅多にいかない私は、ホットの紅茶の時にはグラニュー糖を出すということがわからなかったのだ。
「ガムシロじゃない!グラニュー糖!」
店長がじろりと私を見て、小さいけれど鋭い声で私に言う。
「すみません」
また、キッチンに戻りグラニュー糖を探す。こうやってずっと叱られていると私はものすごいバカなのだと言う気持ちになってくる。紅茶ひとつ満足に出せない自分はゴミなんじゃないだろうか。この時の私は、仕事を全く教えず、そのまま戦力として使う店長の方に非があるなどとは思いもしなかった。私はただただ自分をダメ人間だと思い、責めていた。

お客さんが帰った後の食器を片づける。重いトレイに気を取られたのか、それとも、気が弱くなっていたせいで、注意力が散漫になっていたのか、私はまた排水溝で滑った。
ガラガラガチャーン!!
転んだ私を見た、キッチンに入っている先輩は、
「ねえ、小林さん、それって嫌味?」
と私に向かって言った。
私はその時に、このバイトを辞める決心をした。私はここの人たちにいることを望まれていないのだ。

店を閉めた後、店長に辞めたいことを伝えたら、あっさりと了解された。私はできるだけ早く辞めたいと伝えたら、「明日からこなくていい」と言われた。私はホッとした。たった一ヶ月のバイトだった。

深夜12時近くに駅に着き、帰路につく。大きな満月が輝いていて、美しかった。雲がたなびいているのが見え、星がチラチラと瞬いていた。死にたい気持ちを抱えながら、家路を急ぐ。遠くで犬の吠えている声が聞こえる。大嫌いなこの街からまだ出れていなくて、学校もバイトもうまくいかない。人生とは選択の連続であるが、私はどこで選択を間違えたのだろうか。時間を巻き戻せるなら、という考えが一瞬よぎるが、また最初から人生をやるなんてたくさんだと、もう一人の私が叫ぶ。画材や本を買うために、次のバイトを探さなければならないのが憂鬱だった。

学校へはサボらず毎日通っていた。学校の授業はおしなべて退屈だった。もともと、国文学にそこまで興味があったわけでもなく、専門的に学びたいとも考えていなかったせいだと思う。ただ、宮沢賢治が大好きだった私は、シラバスの中に「宮沢賢治」の名前を見つけてその授業をとっていた。しかし、授業が随分進んでも宮沢賢治について一回も触れなくて、うんざりしていた。

友達がいないお昼は憂鬱だった。一人で席に座り、A定食の鶏肉のトマトソース煮を黙々と食べる。うちの学校は全館禁煙なのだが、それを守っている人は一人もいなかった。ヒステリックに「禁煙」の張り紙が貼られているだけで、食堂はタバコの煙でもうもうとしていた。灰皿がないので、みんな水を入れるコップを灰皿がわりにしていた。あまりにも素行が悪すぎる女子大。ある日、ゴミ箱にキャバクラの名刺が捨てられていた。多分、うちの学校の生徒だろう。キャバクラに勤めていてもおかしくない女子ばかりだった。若いうちに高い時給で働いたら、800円以下の居酒屋でなんて働けないだろうなと勝手に心配していた。私は友達を誰も作らず、ひっそりと学校に通い、生活していた。私はどこに行っても肩身が狭かった。

学校が終わると、新宿に向かった。世界堂に行くためだ。東京には世界堂と言って画材専門のビルがあると高校の時に知ったのだ。しかし、東京の土地に不慣れな茨城出身の私は、世界堂がどこにあるのかさっぱりわからないでいた。インターネットもない時代、どこになんの店があるのかを調べるには本を見なければならないのだが、世界堂がどこにあるのかを教えてくれる本はなんなのかすらわからない。私は新宿をぐるぐる回って、世界堂を見つけられず、諦めてW大学に向かった。

美術サークルの部室に行くと、部長は油絵を描いていた。私はぼんやりとそれを眺めながら、
「私も油絵やってみたいんですよね。世界堂に行こうと思ったけど、場所がわからなくて」
と話しかけた。
部長はえっ!と驚いた顔をした。
「世界堂なんて簡単じゃん。マルイとか伊勢丹の方にまっすぐ行けばいいだけだよ」
筆を止めて、私に返してくれた。
「うーん、でもなんだかわからないけど、ぐるぐる回っておしまいなんですよね。いつも見つけられない」
私は部長の筆先を見つめながら続ける。
「うーん、簡単だけどね」
そう言って、絵に向き直る部長。

私は部長に連れて行ってもらいたいな、と考えた。先日の飲み会以来、私は部長のことを恋愛対象として意識するようになっていた。二人で行けたら最高だろうな、と思うが、ほかの部員がいる前で誘うことはできない。夜も更けて、部室のドアをくぐり、家に帰ることにした。帰りの電車の中で、部長とどうやったら世界堂にいけるかを考えていた。そこで私はふと思い出した。そういえば、サークルのメンバーの連絡先が書いてある冊子をもらったじゃないか。家についてから、机の上を探すと連絡先が書いてある冊子はすぐに見つかった。めくると部長の連絡先はすぐに目に入った。どうしよう、連絡してみようか。しかし、とても勇気がいる。まだ携帯のない時代、かけるのは自宅の電話機になる。親が出たら嫌だ。しばらく考え込んでいたが、別にデートの誘いでなく、世界堂を教えてもらいたいと言うことなのだから、特に恥ずかしくはない、と自分に言い聞かせた。時計を見るとまだ9時を過ぎたばかりだった。電話をかけるのに失礼な時間帯じゃない。

私はドギマギしながら、電話のプッシュホンを押す。プルルルとベルが鳴り、女の人の声がした。どうやらお母さんのようだった。震える声で、自分はサークルの後輩であること、部長を出して欲しいと伝えた。手が汗ばんでベトベトする。しばらくすると部長が電話に出た。心臓がバクバクと脈打つのがわかる。
「あの、小林です。部長にお願いがあって、世界堂の場所がわからないから、連れて行って欲しいんですけど」
喉がカラカラに乾いてしまって、声がうわずる。
「ああ、そういえば、行き方がわからないって言ってたもんね。いいよ。一緒に行こうか」
部長の声は涼しげだった。
そのまま約束を取り交わし、日曜日に新宿で待ち合わせることになった。私はドキドキとウキウキで気持ちが高ぶりっぱなしだった。

日曜日、アルタ前で待ち合わせる。部長は先に着ていた。茶色と白のボーダーのシャツにジーンズを履いていた。私は相変わらず化粧もせず、ブラジャーもつけず、男の子みたいな格好で向かった。
「部長!」
声をかけると、ゆっくりと部長は手をあげた。それだけで、胸がいっぱいになり、甘い気持ちになった。
部長の横に並び、二人で歩きながら、中身のない会話を続けた。会話が止まってしまうのが怖くて、私はペラペラと喋り続けた。そうしたらあっという間に世界堂についた。
「本当にあっという間につきますね」
私はそびえ立つ世界堂を見ながらあっけに取られていた。
「そうだよ。簡単だよ」
そう言って部長はちょっと笑った。

田舎出身の私にとって、ビル全てが画材屋と言うのは夢のようだった。私は始終キョロキョロしていた。
「あ、あの、私、油絵を始めたいので、そのセットが欲しいんです」
部長に伝える。
「油絵ならもう一個上だね」
そう言ってエスカレーターを登る。
油絵のコーナーに行って、二人で物色する。私は入ったばかりのバイト代を持ってきていた。
「初心者なら、これがいいんじゃない。道具が全部揃ってるし」
私は部長が指し示した油絵の具のセットを手に取った。一万円近くするが、財布の中は潤沢だ。キャンバスも欲しいと言う私の言葉に従うように店内を移動する。私は部長の背中を頼もしい気持ちで見ていた。私よりも大きい背中を持つこの人は私を決して傷つけないと言うことは大きな安心だった。

レジに向かう途中、
「世界堂カードは絶対に入ったほうがいいよ。今日のお会計一度で入会金がチャラになるから」
と部長は教えてくれた。私は部長に従い、世界堂のカード会員になり、会計をすませた。意外に買い物が早く終わってしまった。二人で世界堂を出て、私はもうお別れなんだなとさみしくなった。部長の横をとぼとぼ歩いていると、
「ちょっと寄って行こうか」
と世界堂のすぐ脇にあるシャノアールを指差した。
「え!あ、はい!」
私はびっくりして、大きな声を出してしまった。男の人と喫茶店に入るのは初めてだ。ドキドキしながら地下への階段を降りる。

一杯200円のコーヒーを注文して、2人で向かい合う。部長はタバコを取り出して火をつけた。私もタバコはたまに吸うのだけれど、なんとなくやめておいた。コーヒーを飲みながら、部長と会話を始めると、あっという間に楽しくなった。映画や本の話を誰ともできないでいたので、それらの趣味を共有できることが嬉しかった。あっという間に1時間以上経っていて、お互いとっくにコーヒーは飲み干してしまっていた。
「そろそろ帰ろうか」
そう言って部長は会計をしにレジに向かう。私は財布をいそいそと取り出した。
「ここのお金はいいよ」
ことも無げに部長は言う。
「え!いいですよ。自分の分は自分で払います!」
そう強く言ったが、いいからいいからと言う部長に押し切られてしまった。無理やり払うのも失礼かと思い、私は奢られることにした。そして、部長への感謝を示そうと、90度のお辞儀をした。たかが200円のコーヒーかもしれないが、初めて男性におごってもらったコーヒーはどの高級豆よりも、どの名店のコーヒーにも敵わないかけがえのない一杯だった。


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

note.user.nickname || note.user.urlname

いただいたサポートは自分が落ち込んだ時に元気が出るものを購入させていただきます。だいたい食べ物になります。

嬉しいです!
30

生きながら10代に葬られ〜正しい青春を送れなかった人へ〜

いじめ、学級崩壊、全く幸せじゃなかった10代。恋愛したり、友達と海に行くとかそういったことができなかった人に読んでもらいたい。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。