生きながら10代に葬られ〜正しい青春を送れなかった人へ〜第21話

高校三年生の二学期後半、私は血反吐を吐くように勉強した。学校の休み時間も参考書を開き、家に帰ったらずっと夜遅くまで勉強した。そして、自分が全く勉強をしてこなかったことをひどく後悔した。英語は途中で放り投げてしまったので、ついて行くことができなかった。社会は暗記すればなんとかなるが、量が膨大すぎる。文系の大学に進学するとはいえ、最低でも3教科は受けなければならない。しかし、この受験は私が望んだものではない。私が最初から短大に行くという目標を立てていたのなら、こんな結果にはならなかっただろう。自分でいうのもなんだが、私はかなり真面目だ。こんな当てずっぽうな生き方を望んではいない。

私はアトリエに行くのを強く反対されたので、親に何かしたいからお金を出してくれ、と言えない性格になってしまっていた。子供の頃から、習い事や塾にも頻繁に通わせてもらえなかった私は、学校での英検や漢検などの資格の類を一切受けなかった。受験料がかかるからである。私はそれくらい家計のことを心配していた。小学校の時に、お裁縫箱がお菓子の空き缶だった私は、自分の存在をあってはならないものと感じていた。自分がいなければ、家族が余裕をもって暮らせるのではないか。日々、親に文房具代や教科書代をせびるのが苦痛になっていた。金、金、金。教育には金がかかり、それを惜しみなく出せる親の子供は希望の大学にいけるのだ。

しかし、自分一人では勉強するのに限界がある。私はHIV訴訟を支える会の広末さんに良い塾がないか聞いてみた。オススメの塾の名前を暗記して、おそるおそる母に尋ねてみた。私はとても怖かった。そんなものに出すお金などあるわけない、うちにはそんなお金があると思っているのか、アトリエに行かせてくれとせがんだ時の光景が目に浮かぶ。
しかし、母は、
「良いわよ。行った方がいいでしょう。」
と行ってお金を出してくれることを了解した。
私は力が抜けそうになった。あんなにアトリエは反対したのに、塾ならいいのか。私のやりたいことには一円も出さないけれど、親が希望する学校にならホイホイとお金が出せるのだ。私は悲しい気持ちで、塾へ行くお金をもらった。親が私のやりたいことを反対しているという事実が体の中で沸騰していた。それは、私は親に愛されていないという強い気づきだった。

塾に通い始めたが、全くついていけなかった。勧められた塾は現役合格を掲げた進学塾で、私みたいな落ちこぼれは他にいなかった。塾のホワイトボードに書かれている言葉がわからない。何がわからないのか、わからない。勇気を出して講師に質問しても理解ができないという有様だった。私は頭が悪いということを嫌という程知った。恥ずかしく、情けない塾通いは一ヶ月で辞めた。通い続けても意味がないと悟ったからだ。

私は「余裕で入れる短大」に推薦で落ちた。それはもの凄いショックであり、自分の自信を根こそぎ奪った。だから、希望する短大はどこも頭が悪いところばかり選んだ。それでも、多少は学力をばらけさせたが、一番上でも偏差値が50ないくらいだった。正直、私はどこでもいいから受かりさえすれば良かった。親を納得させるためだけの進学なのだ。

私は週末にHIV訴訟を支える会の友達の広末さんの家に行って勉強を教えてもらった。現役W大生だけあって、教えるのがうまかった。家庭教師をやっているが、教えるのがうますぎて生徒の学力がすぐに上がってしまい、解雇されてしまうのが悩みだと言っていた。平日の夜は電話をかけながら、勉強を教えてもらった。私のような馬鹿に付き合ってくれた広末さんには感謝しかない。私は受験勉強をしながら、精神科への通院も続けていた。薬を飲みながらの受験勉強。精神が壊れているのに、ますますおかしくなりそうだ。通学の電車の中で、英単語帳をめくりながら、余計なことは考えないようにした。絵を書くのはピタリと辞め、絵のことを考えるのも辞めた。ただ、たくさんの英単語と漢字と文法、諸々を叩き込み、サディスティックなまでに受験勉強に打ち込んだ。

短大は全部で5校受けた。受けすぎだと思ったが、落ちるのが怖かったからだ。正直、浪人だけは避けたかった。目標の大学のためなら何浪してもいいけれど、一ミリも行きたくない大学のために時間を費やす気になれなかったのだ。近所でも頭が悪すぎてこれ以上、下の短大はないという評判のところと、推薦で受けた頭の悪い短大、それと、そこそこのを3校受けた。近所でも評判の頭が悪い短大の試験は驚くほど簡単だった。そして、推薦で受けた短大は受験科目が国語の1教科のみというもので、テストもべらぼうに簡単だった。正直、全問正解だと思った。推薦で落ちた短大があまりにもレベルが低いことにショックを受けていた。やはり推薦の時の面接に問題があったのだろうか。

5校受け終わって、結果の通知がきた。私を推薦で落とした短大以外は全て受かった。私はなんでこの短大は私を最後まで落とすのかよくわからなかった。そして、あのテストがそんなに悪い点だと思えなかった。しかし、補欠合格の通知が後日くるとあった。推薦で落ちた短大よりも上の学力の短大に受かっていたのだが、一応、補欠合格の通知を待っていた。ただ、なんとなく、推薦で受けたからには入らなければいけない気がしていたのだ。処女の女の子が初めての相手とは結婚しなきゃいけないと思うような、そういうものだった。私は受験が終わってから、また、支える会の活動を始めていた。街宣カーの上で喋る私の映像が全国のニュースで流れた。そして、ある大きな集会の日がちょうど、推薦で落ちた短大の補欠合格の日だった。私は補欠合格の知らせを家でなく、厚生省の前で受けた。夜の9時ごろ、家に電話して、母から聞いた。その日は、厚生省がHIV訴訟の原告団に謝罪した日で、歴史的な日になった。夜9時をすぎても煌々と光を放ち続ける霞が関のビル。きっと、明日からの対応を検討しているのだろう。支える会のメンバーはみんな泣いていた。ずっと運動をしてきてようやく勝ち取ったのだ。しかし、私は泣けなかった。呆然と立ち尽くしていた。これから運動はどうするのだろうか、もうやらなくていいのだろうか。ずっと運動をしてきて、同じ目標に突き進んできたので、それが突然終わってしまうと、ポーンと放り出された気持ちになった。次の日のニュースは朝から薬害エイズの事件一色だった。厚生省が謝罪した途端にメディアは国の悪事を電波に乗せた。今までだって、メディアはこの事件を知っていたのに、少しもニュースで事件の全容を伝えてこなかった。厚生省の謝罪というお墨付きをもらったからだが、その掌の返しようが私はなんだか気持ち悪かった。

私は自分の人生を自分で生きた気持ちが全くしない。人から押し付けられ、勧められたものだけをイヤイヤながら口にしてきた。短大に受かっても少しも嬉しくなかった。あんなに勉強したのだから、少しは嬉しいのかと思ったら、全く嬉しくなくて、自分自身にびっくりした。受験したのが、美大だったら違う感想が出たのだろう。落ちれば悔しくて涙を流し、受かれば歓喜の声をあげたはずだ。私は何も言葉を発せなかった。それは、私の中に詰め込まれた、親の「普通の子供像」が腹のなかいっぱいに充満していたからだ。
私は受験が終わったので、ピアスを空けに行った。学校ではもちろんピアスは禁止だが、卒業が決まっているのだから関係ない。私が開けたピアスを見て、クラスメイトは笑った。私は笑われても全然傷つかなかった。私の心の平静を保っていたのは、あんた達と私は違うという選民意識と、あんた達とはもうお別れなのだ、という事実だった。お弁当を無理して一緒に食べなくてもいいし、トイレに誘われることもない。

卒業式、体育館で先生の祝辞を聞く。やっと終わったという気持ちで安堵していた。つまらない高校だったとしか感想が出てこない。卒業式が終わった後のクラスの打ち上げに誘われた。クラスメイト達と私的にどこかに行くことがなかったが、最後だからとついて行った。個人経営のお好み焼き屋さんで、みんなは思い思いに食べたり飲んだりしていた。一人、サワーを飲んだ子が私に近寄ってきて、ニヤニヤ笑いながら「楽しんでる?」と言ってきた。それとなく、言葉をかわす。私は特に、誰とも親しくなっていなかったので、私に話しかけてくる人もいなかった。コーラを飲んで、お好み焼きを箸で崩しながら、みんな、この場にいて楽しいのだろうか、と考えていた。ふと、支える会のことを思い出す。支える会のメンバーとおしゃべりをするのは楽しかった。私は自分が悪かったのかもしれないけれど、高校では誰にも心を開かなかった。そして、高校ではいじめられないですんだ。それは、本当にありがたかった。

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生きながら10代に葬られ〜正しい青春を送れなかった人へ〜

いじめ、学級崩壊、全く幸せじゃなかった10代。恋愛したり、友達と海に行くとかそういったことができなかった人に読んでもらいたい。
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