生きながら10代に葬られ〜正しい青春を送れなかった人へ〜第19話

高校3年生の私は、だいたいいつも眠たかった。高2の春ごろから通っている精神科には2週に一回通い続けていた。朝昼晩の薬と寝る前の薬、合わせて10錠くらいの薬を1日で服用していた。大抵の精神薬は飲むと眠たくなる。朝起きてもまだ、薬が抜けきっていなくて、頭がぼんやりしてなかなか起きる気になれない。体重は相変わらず増えていて、47キロから52キロくらいになっていた。薬を飲んで、憂鬱な気分が晴れたのかと聞かれたらノーだ。死にたい気持ちはずっと続いていて、死に方ばかり考えていた。当時、完全自殺マニュアルが大流行して、私もそれを手にした。クラスメイトが「読む?」といって渡してきたのだ。単に流行っていたからだったのか、それとも嫌がらせだったのかわからない。私は本のページをめくる度、胸が高鳴った。知りたいことが全部書いてあるのだ。自殺について考える時、重要なのは致死率が高いこと、そして、なるべく痛くないこと。この2点だけが気になっていた。定番の首吊りから飛び降り、そして、焼死まで載っていて、全てを網羅していた。そして、一番楽で確実なのは冬山での凍死だと自分は思った。冬山に行くまでの間に死ぬ気持ちが薄れそうだが、それでも、楽に死ねる方法を知れることはありがたかった。

私は中学生くらいの頃から、いつも自分が死ぬことを想像していた。私が死んだら、誰がお葬式にきてくれるのだろう、などと夢想して放課後を過ごしていた。団地の5階から下を見ると公園で近所の友達が笑いながら歩いている。私は近所の同学年の友達から下に見られていた。近所の友達の誕生日会に呼ばれたことはあるが、私が誕生日会を開いたことは一度もない。近所の子たちと何回か遊んだことはあるけれど、親友のようになることはなかった。一度、急に仲良くなった子がいて、ずっと仲良しだったのに、その子は突然、私を避けるようになった。しかし、また、時々、遊んでくれて、無視をする時と、遊んでくれるときが交互にやってくるので、私は混乱した。クラスの子に「咲ちゃんはエリコちゃんとは火曜日と木曜日だけ遊ぶって決めたらしいよ」と随分経ってから教えてもらった。子供は人の心をおもちゃにするくらいは残酷だ。私は咲ちゃんに無視をされるようになってから、熱がずっと下がらなくて、フラフラしていた。私はストレスが体に出やすい子だった。

高校生になったけれど、クラスで友達はできなかった。中学の時に仲の良かった凛子ちゃんは新しいクラスで新しい友達と仲良くして私と離れた。私は一応、クラスのあるグループに入っていたけれど、グループの子たちのことは全く好きじゃなかった。話が噛み合わないからだ。私はテレビをあまり見なくて、特に、ドラマは好きではない。しかし、当時、トレンディドラマが大流行していて、みんな毎日その話題で持ちきりだった。気になって一度見て見たが、年頃の男女が好きだの嫌いだのをやっているだけで、見ていて全く共感できない。私はばっかみたいと心の中で吐き捨てた。私は小学校の頃から父にたくさんの映画を見せられすぎて、見るものに対してのハードルが上がりすぎていたのだ。だから、こういうドラマに夢中になるクラスメイトは子供に思えた。私はクラスで友達がいなかったが、自分の趣味が良いと信じて、プライドを保っていた。しかし、休み時間にナゴムレコードを聴いている私はただの学校不適応者で、クラスの中では下の下だった。服装こそ、ルーズソックスを履いて、スカートを膝上にしていたが、どうやってもクラスの中心になどいけないし、行こうともしなかった。

クラスの女子たちは休み時間はトイレに連れ立って行くのだが、それも理解できなかった。トイレに行きたければ、一人で行けばいいじゃないかと私は思うのだけれど、女子たちは集団行動が大好きで、みんな一人になるのを恐れていた。思えば、学校は閉鎖された小さな社会だ。一人でトイレにも行けず、お弁当も食べれない人は私にとって器の小さな人に見えた。私は孤独に慣れっこになっていて、いつも一人で行動していた。クラス移動も帰宅の時も。もちろん、ある程度の顔見知りはいるので、たまに一緒に帰ったり、おしゃべりをすることはあるが、表面だけだった。その証拠に私は自分の進路のことを誰にも言っていなかった。多分、当時、私は誰のことも信用していなかったのだと思う。

でも、そうやって一人でいると、自殺の影は色濃くなってくる。過酷な中学時代、友達のいない高校時代。私は死にたくて、死にたくて、たまらなかった。死ぬことだけが自分を救ってくれると信じていた。完全自殺マニュアルを私は書店で購入した。お守りみたいなものだった。完全自殺マニュアルは当時、大流行するとともに、悪書として社会から糾弾された。そして、私の本棚からもいつの間にか消えていた。母の仕業だと察した。

高校生の一学期の終わり、また、進路指導の紙が配られた。私は白紙で出した。美大に行けないならフリーターになるという思いは変わらなかったし、行きたくない大学に高いお金を出して行く気持ちにもならない。ただ、夏休みに、オープンキャンパスに行ってみたいと思ったが、行けないことが悲しかった。デッサンを一つも学んでいない私が、美大のオープンキャンパスに行ったところで、得るものは何もない。クラスメイトたちはオープンキャンパスに行くらしく、高い声で、予定を立てていた。私はここにいるのに、私一人を残して、世界は進行している。クラスメイトたちには燦然と輝く未来があったが、私には何もない。私は毎晩、いのちの電話に電話をしていた。いのちの電話の相談員も困っただろうと思う。彼ら、彼女らには私の問題に介入することはできない。私はただ、「死にたい」と訴えるくらいしかできなかった。死にたい私は、現実から逃げるように支える会の活動に没頭していった。運動をしている人たちといる時だけ呼吸ができた。私は厚生省を正す、という目的で活動していたはずなのに、運動の面白さとその人間関係の方に意識が集中してしまっていて、私は高校生活という日常を放り出して、運動に没中していった。高校3年の夏休み、私は受験勉強を一切せず、運動ばかりして、東京に足繁く通っていた。あんなに厚生省に行ったのは、人生でこの時だけだ。私は社会を正す前に、自分を正すべきだった。しかし、親との不和、進学先への強烈な反対をどうやって、解決したらいいのかわからなかった。学校の先生にも相談する気にならなかった。私は中学の時に、学校の先生という生き物には見切りをつけていた。自分の人生は自分で切り開かねばならない。それをどうするのかは17年生きただけの人間には到底わからず、思考の逃げ先として常に自殺だけがあった。

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生きながら10代に葬られ〜正しい青春を送れなかった人へ〜

いじめ、学級崩壊、全く幸せじゃなかった10代。恋愛したり、友達と海に行くとかそういったことができなかった人に読んでもらいたい。
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