9年会っていない、絶縁した父のこと(6話 父と金)

父は随分金遣いが荒かった。駅から団地の自分の家まで、歩けば20分くらいの距離を毎晩タクシーで帰ってきていたのだ。
父は母に給料を半分くらいしか渡していなかったし、母が父方の祖父の介護をして、そのお礼として受け取ったお金が数十万あったらしいのだが、それも自分のポケットに入れていたそうだ。そういうことをしている父だから、母に隠しているお金は多かったのだと思う。

家族で外食をすることは誰でもあると思う。多分、みんなファミレスに行ったり、近所の中華屋さんに行くくらいだろう。しかし、うちは違った。外食に行くときに、タクシーを使って、フルコースのフレンチを食べたことがある。他にも、東京の高級なお寿司屋さんに行ったりした。外食は父の提案でいつも行われていたのだが、父に任せると高級な店になってしまうのだ。
父と私たち家族は一緒に暮らしているようで、暮らしていなかったように感じる。一緒に暮らしていたら、あんな店を選ぶことはできない。

家族で旅行に行ったことがある。その時、私と父は先に家を出ていた。後で母と合流する予定だった。父とレストランに入っているときに、私はソースをこぼしてしまった。仕方ないので、替えの洋服を買おうということになり、父はデパートの子供服売り場に行って、1万円もするワンピースをひょいっと買った。私は値段に驚いたが、断るのもなんかおかしいと思ってそのまま買ったワンピースを着て、母と合流した。母はワンピースの値段を聞いて激怒した。いつまでもブツブツと母はワンピースについて文句を言っていて、旅行が終わった後もしばらく言っていた。母はお金がないことで心が狭くなっていた。

私は習い事を一つしかしたことがない。うちの親は習い事を一切させてくれなかった。純粋にお金がなかったからだ。私は字が上手くなりたくて、お習字に行きたいと母に言ったが断られた。私は近所の子たちがお習字に行くときに、ついて行って、習字教室の隅っこでお手本を見ながら練習していた。いさせてはくれたけど、月謝を払っていないので、赤でなおしてもらえず、私は自分の字のどこがおかしいのかはわからずじまいだった。必死に通っていた、無償のお習字も、私が二日続けて同じ服を着て行ったことで、近所の子たちにバカにされたので、それきり通わなくなった。私の字は大人になっても汚いままで、履歴書を書くときがとても辛かった。

絵を書くことが好きだった私が、唯一行ったのは絵画教室だった。知り合いの子が公民館で習っているのを知って、母に何度もお願いした。私は何回も頭を下げた。許してもらって通った絵画教室の月謝は三千円かそこらだったと思う。私の要望を聞き入れてもらえたのは後にも先にもこの時だけだった気がする。

父は突然大きな買い物をすることがあった。いつも肩こりがひどいからと言って、でかいマッサージ機を買った。10万以上は確実にしたと思う。一年後には物置になっていた。
私が高校生の時には、30万もするパソコンを買った。当時、パソコンはウィンドウズ98が出たばかりで、まだ一般家庭には珍しかった。会社のパソコンオタクに勧められて購入した。父はパソコンがあるというだけで満足してしまって、パソコンにはほとんど触らなかった。そもそも、機械音痴なのだ。家族の誰も興味を持たなかったので、私が一人で使っていた。タイピングとペイントソフトで絵を書く以外にすることが見当たらなかったが、パソコン通信を知り、毎晩、ニフティサーブでチャットしていた。30万のパソコンは私のチャットくらいしか使い道がなかった。
CDコンポも随分早い段階に買っていた。音楽が好きというより、新しいものが好きだったのだと思う。
他にも、サウナが好きだったため、家にサウナを取り付けようとしたことがある。借家の団地なので、家族で断固反対した。しつこい父を説得するのは大変だった。

私は高校を卒業したら、美大に行きたいと考えていて、それにはアトリエに通ってデッサンの勉強をしなければならなかった。私は一人で見学に行って、父にパンフレットを渡した。
父は
「エリコは絵が上手いんだからいいんじゃないか」
と笑顔で言ったが、パンフレットの金額を見て、キレた。
私はこの時のことを自分の漫画に書いていて、この時のアトリエの金額を100万円だと書いたのだけれど、今、ネットを使って調べたら30万くらいだった。なぜ、100万と思ったのか謎だけれど、父の激怒の仕方から異常に高いと印象付けられてしまったのかもしれない。

私は幼い頃から美大に行くことしか考えていなかったので、とても堪えた。絵を描いては父に見せて、父がその絵を褒めたら、「美大にいかせてくれ」と懇願したりしたし、アトリエのお金を捻出するために売春しようとまで考えていた。もちろん母にもアトリエに通いたいと言ったと思うが、母は「お父さんが良いって言ったら」と父に決断を任せていた。

思えば、私は絵を書くことを家族から歓迎されていなかった。小学生の頃、あんなにたくさん賞をとった絵を家族は一枚だって飾ってくれなかった。賞状も、なぜか絵画のものは飾ってくれなくて、化学の自由研究の賞状しか飾ってくれなかった。私の家族は絵なんてどうでもよかったのだ。

父は人をお金で動かすのが好きだった。父は何かと言うと「こずかいをやるから〇〇してこい」が口癖だった。私はお金欲しさに、お酒を買いに行ったり、競馬新聞を買いに行ったりした。母はそういう父を嫌っていた。そうやって子供を使うのは良くないと思ったのだろう。

父は子供を決して褒めなかった。私が学校でいい成績をとっても褒めてくれなかった。理由は「一番以外は意味がない」からだった。テストや成績表を見ても、一番じゃないという理由で褒めなかった父が許せなかった。逆に、どの分野でも一番なら褒めてやるといって、一番になったら10万円やると言っていた。

私は高校生の時、新教研で一番を取るために、国語の選択で、現代文を選択した。古文だとどうしても1位は取れないからだ。その結果、私の国語の成績は学年でトップになった。全国でも数千番であったが、学年で一番のことが大事だった。
父に成績表を見せると、褒めるというより、悔しがっていた。私は父に10万円を要求したが、それは無理だと言って一万円しかくれなかった。私はお金が欲しかったというより、私のいう通りに10万円を渡す父が見たかった。私は父より力を持ちたかった。

父は子供の将来のためということを全く考えていなかった。だから、子供の教育にお金を払わなかった。母は払いたかったのかもしれないが、お金を持っていなかった。塾も通い出したのは中学生の後半からだった。高校の時はアトリエを反対されて、どこにも学びにいけなかった。
私は習いたいことを親に拒絶されるようになってから、やりたいことをやりたいと言い出せない人間に育っていった。だから、私は資格を一個も持っていない。資格をとるのにはお金がかかるので、試験を受けたいなどと言えなかったからだ。
美大に行くことが許されず、行きたくない底辺の短大でも、中学校の教員免許や学芸員の資格が取れた。けれど、私は取りたいなどと親にいうことができず、何も資格を取らず卒業した。

父が私にお金を使うのを嫌がったエピソードとして、私の成人式に、振袖を着て写真を撮ったらと母が勧めたのだが、私が「お金が高いからやめたほうがいい」と断ったときに、それを聞いた父が「せっかくなんだから撮れば良いじゃないか」と言ったが、着物のレンタル料が20万くらいかかると言ったら「撮らなくて良い!」と怒鳴った。

毎晩タクシーで帰り、毎日飲み歩き、良いものを食べ、博打をし、突然高い買い物をする父は、私にはお金を使いたがらなかった。思えば、小さなおこずかいはよくくれた。それは、自分に子供を手なづけさせるためだったのだろう。
私は親のせいで自分の人生がダメになったと感じるときが良くある。いつまでも親のせいにするのは大人気ないだろうか。私は父からお金という愛情を受けることができなかった。父は子供のように、自分の遊ぶお金がなくなるのに怯えて、子供にお金をわけなかったのだ。私は学がない。自分の身を立てる術を持たない。今から学べば良いという人もいるかと思うが、ただのパートとして生活している私には、学費の捻出なんて不可能だし、そもそも、若いときに持っていた情熱が失せてしまった。
私の青春は父に浪費された。

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