生活保護を受けている精神障害者が働くまで(仮)加筆版 2章

2章

 退院してからクリニックのスタッフと面談した。

 「小林さんはしばらくデイケアに来ないでください。私たちを裏切ったのだから」

 スタッフはそう言った。医療者にとって患者が自殺未遂をするというのはショックなことだ。デイケアの出入り禁止はひどいことをした私へのスタッフが下した罰だ。しかし、今回のことで一番辛いのは、自殺をしてしまった私である。耳元で「死んだら楽だよ」と囁く死神の声に抗うことができず、自殺をしてしまったのは本人が一番ショックなのだ。弱った体と心は猛烈に居場所を欲しているのに、スタッフから居場所を奪われて、私はどうしたらいいのだろう。

 「デイケアにはいつから行ってもいいですか?」

 「そうね、3カ月後からね」

 3カ月間はひとりぼっちなのか。私は元気をなくし、クリニックから自分のアパートまでトボトボと歩いて帰った。自宅はきれいに掃除されていて片付いていた。母が掃除してくれたのだろうか。布団に横になった。

 起きて顔を洗って歯を磨く。重たい体を引きずって買い物に出かける。スーパーで底値の野菜を買う。ナス、ピーマン、玉ねぎ。スーパーで安い野菜はだいたい覚えた。豆腐に納豆、鶏胸肉。帰宅して冷蔵庫に買ってきたものを入れた。この冷蔵庫は電気屋さんで一番安いものを買った。小さいし、メーカーも聞いたことがない名前のものだ。思えば、生活保護を受ける前にいい冷蔵庫を買っておくべきだったのではと思った。生活保護申請の前に買っておきなさいとクリニックのスタッフに急かされたのはこのことだったのかと、今頃になって気づいた。もう一生、冷蔵庫なんて買い換えられないのではないだろうか。

 アパートの畳の上で横になって本を読む。時間だけはたっぷりあるので、いくらでも本が読める。けれども以前より集中力が落ちて、あまり読み進められない。疲れて目を閉じた。

 目がさめると、日が落ちていて暗くなっていた。台所に行ってナスとピーマンを炒める。なんの変化も希望もない毎日が始まった。

 出入り禁止を言い渡されて、10日ほど経っただろうか。クリニックから電話がかかってきた。

「もしもし」

「あ、小林さん? 前に話していたテレビ番組の出演だけど、出てくれるわよね」

 私が通院しているクリニックは業界の中では有名らしく、以前から取材がよく来ていた。私はデイケアの中で目立つ存在だった。他のデイケアのメンバーよりよく動いていたし、講演会で話すのが上手いのでスタッフに気に入られていた。そのためスタッフからテレビ出演を依頼されていたのだった。

 断りたかったけど、断ったらスタッフはもっと私のことを嫌いになるだろう。見捨てられたくない、そう思って私はテレビ番組出演の話を受けた。

 私の携帯にテレビ局のスタッフから電話がかかってくる。

「今から、家まで取材に行っていいですか」

「今から出かけるので、ちょっと無理です」

「じゃあ、同行させてください」

「それはちょっと困ります」

 テレビはとても強引だった。家の本棚から、トイレの中まであらゆるところを撮られて、自殺未遂のことをカメラの前で話した。私の考えや、人生が丸裸になって見世物にされていく気がした。まるで、レイプされているみたいだと思った。それでもクリニックに見放されるよりはマシだった。自分が参加できる場所があることが、そのときの私にとってたったひとつの心の拠り所だった。人はどこかに所属していないと不安になる。仕事をしておらず、一人で暮している私にとってクリニックが唯一の所属先になる。クリニックと縁が切れてしまうくらいなら、カメラで覗かれても構わない。クリニックは私の最後の生命線なのだ。

 3カ月が過ぎ、テレビの取材も終わり「生活保護下の生活」が改めてスタートした。申請時に説明があったとはいえ、お金の振込に関することばかりで、実際の生活に生活保護がどう影響してくるのか、まったく教えてもらっていなかった。生活保護を受けているのに、生活保護についての知識がほとんどない。そんな状態だった。

 私の身近にいて知識を持っている人が誰かと考えるとケースワーカーしかいない。クリニックのスタッフも知識を持っているのだろうが、市役所のケースワーカーの方が詳しいに決まっている。私の将来はケースワーカーの手に委ねられていると思った。私以外の生活保護受給者とも付き合っているケースワーカーは、生活保護の人間がどうやって生きていって、どうやって社会に戻っていくかを知っているはずだ。

 ケースワーカーは、働ける生活保護受給者には就労支援を行うだろうし、働くことができない生活保護受給者にはその旨を伝え、病気の治療に専念させるために話をしたりするのだろうと期待していた。私を含め、福祉を受ける人というのは、周囲に頼れる人がいない状態に陥っていることがほとんどだ。ケースワーカーは、生活保護受給者が等しく頼れる唯一の存在だと思う。私は早く就労して生活保護を脱したいと考えていたが、私の障害の程度では働くことができないというのであれば、そのように私を納得させてほしい。私の人生を生かすのも殺すのもケースワーカーなのだ。

■ケースワーカー1人目

 玄関のチャイムが鳴った。誰だろうと思って、ドアの覗き窓を覗くと、担当のケースワーカーが立っていた。人に会うのは久しぶりだ。デイケアにも行っていないし、テレビ局の取材が終わってから誰とも会って話していないため、私は猛烈に人に飢えていた。

 急いでドアを開けた。ドアの前に立っているケースワーカーはひょろりとしていて、青白かった。なんだか水木しげるの漫画を思い出す。なので、このワーカーのことは水木さんと呼ぶことにする。

 水木さんに「こんにちは」と挨拶をした。水木さんは私を見て、「こんにちは。小林さんは毎日どうやって過ごしてますか」と聞いてきた。

 毎日どうやって過ごしているかという質問に答えるのは難しい。模範的な生活保護受給者の暮らし方というものがあるのだろうか。オドオドしている私をよそに水木さんは続けた。

「病気などはしていませんか」

「はい、特にしていないです」

 それを聞くと手に持った書類に何か書き込んだ。私は何か話をしたくてたまらなかった。しかし、どこから話せばいいのか自分でもわからない。それに近所の人に生活保護だと知られたくない。玄関先では声が聞こえてしまうが、家の中に男性を上げるのも抵抗がある。悩んでいるうちに水木さんは「それでは」と言って背中を向けて去って行った。

 私が生活保護だということが近所に知られないようにとの気遣いなのか、次の訪問先があって忙しいからなのか、水木さんの滞在時間は5分もなかった。引き留めたかったが、無理だった。私は水木さんの背中を見てこれ以上何も聞いてはいけないのだと察した。

 水木さんは月に一回、訪問に来る。いつ何時に来るかわからないけど、毎月一回来るのは確かだ。不在時はポストに「訪問に来ました」という紙が入っている。

 生活保護を受け始めて半年以上経ったが、どうしたら就労できるのか、そもそも生活保護を受けている状態で働くことができるのか、未だにわからなかった。

 自分でどうにかしたいと思ってインターネットで「生活保護」という単語で調べると罵詈雑言がたくさん出てくる。しかし、嫌な言葉でも私は見てしまう。必要な情報にたどり着けないまま、生活保護がネットで叩かれているのを見続ける。それはありあまる時間を持て余した私の自傷行為だった。

 煮詰まってしまう前に水木さんに相談しよう。そう決意して、不在時に投函された紙を手に市役所に電話をかけた。水木さんに、留守にしていたことを伝えると

「わかりました。明後日の2時ごろ伺います」

と再訪問の日取りをその場で決めてくれた。

 私は水木さんのためにお茶を用意して待っていた。スーパーでちょっとしたお茶菓子も買った。男性のケースワーカーを家に上げるのは怖いが、どうしても話したかった。

 水木さんが来た。玄関先で水木さんは「何か変わりはありませんか」と聞いてきた。私は質問に答えながら焦っていた。上がっていって話を聞いてくださいってどうやって伝えればいいんだろう。そもそも、上がっていってくださいと言ったら上がってくれるのだろうか。その前に、水木さんは私の相談を聞いたら次の仕事に支障が出てしまわないのだろうか。

 そう考えていたら「相談したいことがあるので上がっていってください」と伝えることができなかった。「お茶を用意しました」とも伝えれられなかった。水木さんはいつもと同じ質問をして、いつもと同じように背中を向けた。水木さんがカンカンカンと鉄の階段を規則正しく降りていく音を寂しい気持ちで聞いていた。私はいつもこうだ。相手のことを考えすぎてしまい、自分が言いたいことを一つも言えない。私はきっともう少し、ずうずうしいくらいがちょうどいいのかもしれない。私の背後には机の上に用意されたお茶とお茶菓子がポツンと残されていた。私は玄関のドアを閉めて一人でお茶とお茶菓子を食べた。悲しい甘い味がした。

 季節は冬になり、風邪を引いてしまった。水木さんは毎月「病気などしていませんか」と確認してくれていたが、病気になった時にどうやって病院に行けばいいのかは話してくれなかった。病院に行きたいが保険証がない。生活保護を受ける時、役所に保険証を返してしまったのだ。どうしたらいいのだろう。

 とりあえず市役所に電話をしてみると、「医療券を出しますので、それを持って病院に行ってください」と言う。医療券なんて初めて聞いた。役所までは自転車で20分ほどかかる。歩くと結構な距離だ。バスはほとんど出ていないし、正直、重い体を引きずって役所まで行く自信がない。

 私が電話口で少し戸惑っていたら

「近くに市役所の出張所がありますよね。そちらでも医療券は出せますので」

と言われた。

 コートを着込み、マスクをして出張所まで歩いて行った。風がびゅうびゅう吹いて私は身を屈めた。街はすっかり冬の色に染まっていた。

 私は小さな声で

「生活保護なんですけど、病院にかかりたくて」

と言った。

 他の用事で来ている人たちに聞かれたらと思うと自然と声が小さくなった。

 出張所の女性はわら半紙を出して記入するように言った。そこには受診する病院名、理由、名前、住所などを書く欄があった。ボールペンで記入して提出した。女性はそれを見て電話をかけた。きっと役所にかけているのだろう。私の名前を口にしているのが聞こえる。書類にハンコを押して渡された。それを持って病院に行った。病院でも生活保護だと言わなければならず、私は何回も恥ずかしい思いをした。

 生活保護を受けながら生きていると、否応なく自分がまともではないと思い知らされる。仕事をしていないのにお金をもらうというのは異常だ。何かとんでもなく悪いことをしているように感じる。私と同じ年の人でこんな暮らしをしている人が他にいるのだろうか。朝は好きな時間に起きて、好きな時間に食事をして、行くあてもないのでただブラブラしているだけ。この状態はきっと最低だ。生活保護を申請した時は切迫していたので、生活保護のことを恥ずかしいという感情は湧かなかった。保護下の生活が始まってから、毎月、振り込まれる保護費は私からお金を稼ぐという行為をなぜするのかということを忘れさせた。だらりと伸びきったゴムのような生活をしていると、この生活に馴染んでしまいそうになる自分が怖くなる。生活保護を恥ずかしいと思わないと私はここから出ることができない。生活保護を恥ずかしいと思う気持ちが大事なのは、恥ずかしいという気持ちがなくなったら社会復帰できないからだ。この「恥ずかしい」という気持ちを失った時、私は未来の可能性全てを失うことになる。

 家とスーパーとデイケアの往復だけの生活が続くなかで、一度北海道に出かける機会があった。テレビ出演と同じ理由でクリニックから話が舞い込み、北海道で行われる製薬会社主催の講演会に参加することになったのだ。往復の交通費はクリニックと製薬会社が出してくれたので、滞在費だけなら生活保護費のなかでやりくりできる。 

 講演会のついでに「べてるの家」という、精神疾患の当事者と家族・支援者が集まる場所に寄ることにした。「べてるの家」では、自分の病気を支援者や仲間と一緒に見つめる「当事者研究」という取り組みが行われていて、私は病気を拗らせはじめた短大時代に、「べてるの家」の本を貪るように読んでいた。

 さらに通っているクリニックに、「べてるの家」の人たちが来ることがあったり、東京で行われる講演会に聞きに行ったりするうちに、私と「べてるの家」の距離は一気に縮まり、北海道に行けるのであればぜひ立ち寄りたいと思ったのだ。

 その滞在中、またしても風邪を引いてしまい、病院に行くことがあった。すると、千葉の市役所からすぐに電話がかかってきた。

「北海道にいるんですか!?」「どうして?」

 矢継ぎ早に質問を受けた。帰宅日を伝えると、自宅訪問の日取りを設定された。

 北海道から帰ってきて二日後。訪ねてきた水木さんは、「べてるの家」のホームページをプリントアウトしたものを持ってきた。「べてるの家」についての説明を求められたので、当事者研究のこと、自分の病気のためになると思って行ったことを話した。

 べてるには同じ病気の人がたくさんいて、病気を否定することなく生きている。むしろ、病気のおかげで助けられたという考えを当事者は持っているのだ。私が北海道のべてるの家に行って当事者研究をしたとき、わかったことは、私が自殺未遂を繰り返すのは人とのつながりを猛烈に欲しているからだということだ。薬をたくさん飲んで病院に運ばれると医者や看護婦が優しく接してくれる。いつも一人で過ごしているけれど、病院に運ばれる時は私は人とつながっている。大量服薬という手段を通して私は人とつながっているのだ。このことに自分自身が気付き、納得できるようになったのは「べてるの家」があってこそだ。

 生活保護受給者は贅沢をしてはいけなくて、北海道への旅行は贅沢になると私は考えていた。生活保護受給中に旅行にいったらまずいとは思ったのだけれど、生活保護費ではまかなえない飛行機代はかかっていないので、金銭的なことは問題ないはずだから、バレなければ大丈夫だと思ってしまっていた。でもバレてしまったからには、生活保護が切られる可能性もあるのではないかと覚悟した。

 けれど、水木さんはいい顔をしなかったが、これといって攻め立ててもこない。今後旅行に行かないようにとも言われなかった。ただ、水木さんは不服そうにして、ぶつぶつ何かを言っていた。

 今回の旅行は私にとって実りのあるものだったが、水木さんには理解しがたいことのようだ。この人は私と真剣に関わってくれていないのだ。私がどうやって社会と関わっていくのかを一緒に考えてはくれない。生活保護受給者は目立った行動をせず、生活保護費の範囲内で生きていればいいと考えているのだと思ったら悲しくなった。

■ケースワーカー2人目

 生活保護を受け始めて一年が経った頃、役所から電話がかかってきて、ケースワーカーが変わるので、新しいケースワーカーと会うようにと言われた。理由は説明されないのでわからないが、3月なので、人事異動だろう。このことを母に電話で報告すると、役所では生活保護のことを知らない人がワーカーになると言っていた。福祉のことを専門的に学んで、生活保護課で働きたいという人の採用が決まっても、希望通りに配属されるとも限らないらしい。障害のことも、福祉のことも知らない人が私と真剣に関わってくれるのだろうかと不安になった。

 生活保護課の小さな面会室に表れた新しいケースワーカーは、酒焼けした赤ら顔だった。その赤さは酒乱の私の父に負けておらず、その上ガタイがよく、背が高かった。髪型はもじゃもじゃとパーマをかけていたので、この人のことはパーマさんと呼ぶことにした。

 パーマさんへの変更が知らされる前、私は担当のケースワーカーを女性に変えて欲しいと市役所に電話して伝えていた。市役所に電話をして生活保護課で一番偉い人を呼んでもらって、伝えていたのだけど、ずっと水木さんのままだった。もちろん水木さんには、悪いと思ってしまい面と向かっては言えない。今回変わるというので女性かと期待していたのだが、水木さんよりも強面のパーマさんになってしまった。

 パーマさんは「初めまして。これから担当になります」と自己紹介した。「こちらに移動してください」と言って市役所の中の小さな部屋に通された。私のケースファイルをパラパラめくるパーマさんの手元から内容がチラリと見えた。そこには私の事が詳細に記載されていた。生い立ち、家族構成、病歴。いつの間にこんなに調べたのだろう。主治医が情報を提供したのだと思うが、医者以外に自分の過去を知られるのは気分が悪い。私の過去を知ることで、私の社会復帰が良い方へ促されるのだろうか。

 パーマさんが「父親も生活保護?」

と急に聞いてきた。貧困は連鎖するといわれるが、私は違う。

 私はムキになり

「父は定年まで会社に勤めました」

と答えた。

 卒業した学校名が目に入った。生活保護を受けるにはこんなことまで知られなきゃいけないんだと怖くなった。パーマさんは私のケースファイルを見て「あー、お兄さんのことがあるからか」と言った。私が担当のケースワーカーを女性に変えて欲しいと言っていたことを知っているのだろう。ケースファイルにどんなことが書いてあるのか私には分からない。でも、主治医は私が兄から性虐待を受けていた事を知っていたので、その事が書いてあるのだろう。役所の蒸し暑い隔離された部屋で私は蚊と不快感にまとわりつかれていた。肌はじっとりと濡れ汗は垂れて舌を噛み切って死んでしまいたかった。呼び出されたにもかかわらず、水木さんはいないし、引き継ぎとも言えるものではなかった。

 正直、パーマさんを見てから私は怖くなってしまった。人を見た目で判断してはいけないが、怖いものは怖い。

 家に帰宅してから、電話でパーマさん本人に

「担当を女性に変えて欲しいのですけど」

と言ったら

「なぜ?」

と言われた。

「家に上がってもらった時に二人きりになったら怖いからです」

と答えたら

「大丈夫だよ。俺には妻も子もいるから」

と返されたのだが、何が大丈夫なのかわからない。

 困り果てた私は学生時代の友人のことを思い出していた。短大生のとき、一緒にインドにまで旅行に行った友人だ。彼女は学校を卒業してから司法試験に挑戦して弁護士になり、いまでは独立して事務所を持っている。彼女が試験勉強に取り組んでいた頃、病気で入退院を繰り返していた。私は寂しさのあまり彼女にしつこく連絡をしてしまい、勉強を邪魔して彼女を怒らせてしまったことがある。そのことで疎遠になってしまっていたが、ある日、司法試験に合格したという手紙をくれて、私は嬉しくて泣いた。彼女なら何か専門的なアドバイスをくれるかもしれない。私は彼女の「合格しました」と几帳面な字で書かれてた手紙を握りしめながら電話をかけた。手紙の隅にはキッズリターンという映画の「俺たちはまだ始まってもいないよ」というセリフが書かれていた。私たちが大好きな映画だった。

 電話に出た彼女は、10年以上話していないのに学生の頃と変わらなかった。大粒の涙が目からこぼれ落ちた。

「あのね、相談したいことがあって電話をかけたんだ。ちょっと困っていて。相談にのってくるかな」

「いいよー、私ができることであれば相談にのるよ」

「今、生活保護を受けているんだけど、担当のワーカーが男性で怖いんだ。どうしたら女性にしてもらえるのかな」

「うんうん、そういうことか。今、パソコンある?ネットは繋がる?」

「うん、パソコンもネットもある」

私はパソコンの電源を入れながら旧友とお互いの近況を確かめ合った。そして、涙を流しながら今の状況を笑い飛ばした。彼女も笑っていた。

「住んでいる市のホームページに行って」

「うん、行ったよ」

「問い合わせページわかる?生活保護課のところ」

「問い合わせページ・・・あ、あった! メールアドレスを入れて、質問とか要望を書き込めるようになってる」

「そこに、そのまま書き込めばいいよ。生活保護を受けているのですが、担当のワーカーを女性に変えて欲しいって」

「生活保護を受けているって書いても大丈夫なの?」

「大丈夫だよー」

友人はケラケラと笑った。私もつられて笑った。

「どういう文章にすればいいんだろう」

「じゃあ、私が代わりに文章考えてあげるよ」

「えー! 私、お金払えないよ」

「出世払いでいいよ」

 二人して笑いながら市役所のページに問い合わせをした。書き終わってから、友人にお礼を言って電話を切った。数日経っても私のメールアドレスに市役所から返信はこなかった。結局ケースワーカーは女性に変わらなかった。

 私は新しいケースワーカーがパーマさんになって、就労に向けて動いてくれるのかと期待した。強面だが、仕事熱心な人かもしれない。

「生活保護」という単語でインターネットの検索は何度か試みているが、一向に自分が欲しい情報にはたどり着けなかった。知りたい情報は、生活保護の受け方でもないし、生活保護にまつわるニュースでもない。生活保護を受けるのをやめるにはどうしたらいいのか、ということである。もちろん、受けたくないと申し出れば止められるのだろうが、仕事がないのだから、あっという間に生活ができなくなるのは目に見えている。生活保護をやめるためのステップが知りたいのだ。

 保護開始時にもらった書類を引っ張り出してきて、内容を確認する。保護費が振り込まれる日付は書かれているが、生活保護の切り方は書いていない。図書館に行って生活保護についての本を借りようと思ったが、生活保護を受けていて、生活保護の本を借りるのはなんだかとても恥ずかしくてできなかった。バカだと思われるかもしれないが、私は図書館で本を借りるときも、司書の人に自分が生活保護だということがばれるのではないのかと思っていた。市役所にあれだけ個人情報が晒されているのだから、市がやっている図書館にも自分の情報が漏れているのではないかと考えていた。図書館のカードのバーコードをかざすときにわかってしまうのではないかと思っていた。

 ネットにも手立てがないし、書類にも、本にも頼れない。図書館から帰宅して、家に置きっぱなしの携帯を手にした。留守電を見るとパーマさんから着信があったので、折り返して電話をかけた。

 生活保護課の人が電話に出て、私はパーマさんにつないでくれるのを待った。パーマさんが電話にでて、開口一番、

「いやー、ちょっと、うんこしてた」

 といった。パーマさんの排便状態などどうでもいい。

 パーマさんはうんこしているくらいなので、あまり仕事熱心ではなかった。いや、うんこと仕事は関係ないか。水木さんは訪問に来て、私がいなかったときはメモを残してくれる。パーマさんはメモすら残さないので、本当に玄関まで来たのか怪しい。電話だけはかかってくるが、いつも言うのは「訪問に行ったときに、いつもいないので、どうにかしてくれ」だった。「時間を指定してくれれば家にいます」と話したのだけれど、そういうと、なぜか口ごもる。本当は訪問には来ていないのかもしれない。生活保護受給者の数は多いが、ワーカーの数は少ない。パーマさんはめんどくさいのかもしれない。

 パーマさんは怖いし頼りにならないままだったが、このままではいけないと思い立ち、精神障害者を雇ってくれるNPO法人に電話をした。けれど、現在は人が足りているからと丁重にお断りされた。ダメでもともとの気持ちでいたが、断られるとやっぱり落ち込む。私はそれっきり何のアクションも起こせなかった。ただ、無為に日々を過ごした。

 しかし後日、先日電話をかけたNPO法人から連絡が来た。漫画の単行本の制作を手伝ってほしいと言うのだ。そういえば、最初に電話をした時に、昔、漫画の編集をしていたと伝えていた。私は電話を持ちながら驚きと嬉しさと緊張で感情がもつれた。この感情の乱れはいい乱れた。私が必要とされているという喜びのバイブレーションだ。

 詳しく話を聞くと、ボランティアとしての採用で、少なくとも単行本が出来上がるまで給料は発生しないということだった。それでも構わない。私はようやく仕事を得たのだ。 

 NPO法人に行くようになった。お給料はでなくても行くところができて、私は元気になっていったのだが、困ったことが起きた。パーマさんの訪問を受けれないのだ。NPO法人に行っていないときに、訪問を受ければいいのだけれど、パーマさんは相変わらず予告なく不定期だった。何ヶ月か訪問を受けないまま過ごしていたら、パーマさんから電話がかかってきた。

「宮沢さん、いつもどこに行っているんですか」

怪訝そうな声でパーマさんは私に尋ねた。もしかしたら、勝手に働いて不正受給をしていると思っているのかもしれない。

「NPO法人にボランティアに行っているんです」

私は正直に答えた。

「しかしね、これ以上、訪問ができないのだったら、生活保護を打ち切らなければならないから。とにかく、一度、訪問して宮沢さんの家に上がらせてもらいます。」

訪問を受けなかったら、即生活保護打ち切りなのだろうか。私はパーマさんの言葉を脅しのようにも感じた。

「わかりました。家にいるようにします。後、聞きたいことがあるんです。家の中に上がって何をするんでしょうか」

生活保護を打ち切られたら生きていけない。私は覚悟を決めて答えた。

「貴金属とかアクセサリーとか高価なものがないか調べさせてもらいます」

私はかなりびっくりした。パーマさんは私が高価なものを隠し持っていて、不正に生活保護を受給していると疑っているのだ。

 私は何も言えなかった。何と答えていいのかわからなかった。生活保護を受けてからでは貴金属など買えるわけがないし、人からもらうわけでもない。私が生活保護を受けたときに、貴金属を隠して持っていたと疑っているのかもしれない。生活保護を受けるというのは、家の中も全て見せなければいけないものなのだろうか。

 私は制度の中でがんじがらめになっていた。

自由も、プライバシーもない状態の私は生きているというより、生かされているという感じだ。カゴの中の鳥のように小さな空間の中で羽根をバタつかせ、出てくる餌を食べて生きているだけだ。一生カゴの外には出られないのかもしれない。私は鳥かごの中で息絶えるのだろうかと思うと、暗澹たる気持ちになった。

いただいたサポートは自分が落ち込んだ時に元気が出るものを購入させていただきます。だいたい食べ物になります。