見出し画像

SNS文章が巧くなりたければ正岡子規に学べ!【補論:正岡子規は日本語そのものの自立の為に戦っていた?!「母国語を守る」ということの意味】

過去五回に渡って正岡子規の俳句論をWeb文章論に翻案する試みをしてきましたが、今回は、そこで語りきれなかった補論となります。

正岡子規の『歌よみに与ふる書』の中に、以下のような印象深い箇所があります(※現代口語に直した上で、私なりに意訳しています)。

「和歌とは古今和歌集以来の伝統的な言い回しを守ることだ、そしてそれこそが日本語を守る道だ」という人もいるが、間違っている。それではまるで弓矢で西欧の近代軍と戦おうとしているようなものだ。そんなことをしていたらむしろ日本語は滅んでしまう!そうではなくて、ちょうど軍人が国防のために西欧から新型の大砲や新型の軍艦をどんどん輸入しているように、日本語も外来語や新造語を豊かにして、どんどん新しい表現を生んでいかないといけない。外国に滅ぼされないようにするには言語にも常に刷新が必要なのだ

『歌よみに与ふる書』を単なる文学論だと思って読んだ人ほど、時折出てくるこのような「文学をがんばることで外国に負けない国になろう!」というテーゼにはギョッとするのではないでしょうか?

もっとも子規自身はこの後で「こんなふうに、文学すらも、まるで戦争に参加するような比喩で語る私は、みんなには狂人に見えるかもしれないが」と冗談めかしてバランスをとっていますが。

子規のこのような発想は、私のような現代人にはむしろ斬新な視点です。

これを背景にしていると思われるのが、テレビドラマ『坂の上の雲』で、正岡子規の親友である夏目漱石が日露戦争を評して言う、「もし日本がロシアに負けたら、それはつまり、日本語が公用語でなくなるかもしれないということだ、だから僕ら文学者もこの戦争には無関係ではない」というセリフ。それは漱石というよりは子規の発想を受けて脚本に盛り込まれたセリフなのではないかな、と個人的には思っています。

古い明治の発想にすぎないとは百も承知ながら、「母国語というものは常に活発にしていないと、衰えたり弱ったりするもの」という話なら、外国語学習かぶれの私にはとてもよくわかる!世界を見回しても、「歴史のどこかで自分たちの先祖以来の言葉を失った国(あるいは奪われた国)」というのはいくらでもあるわけですからね

ら抜き言葉がいいか悪いか、とか、カタカナ語の使いすぎはいいか悪いか、とか、いろんな議論が常にありますが、ともかくも母国語というものはこのように常に議論に晒して活発にしていかないと守れないのだ、というのはよく理解できる話。

そして「戦争が嫌なら他国より強い軍隊を持て」という話は一理ありますが、それよりは「戦争が嫌なら母国語や母国文化を常に刷新して海外から独立国としてのリスペクトを勝ち取り続けよ」という発想のほうが、私は好きですし、そちらのほうで社会貢献したいな、と思うのでした。ちょっと甘い考えで、子規あたりの時代の明治人からは怒られちゃうかもしれませんが、、、。

子供の時の私を夜な夜な悩ませてくれた、、、しかし、今は大事な「自分の精神世界の仲間達」となった、夢日記の登場キャラクター達と一緒に、日々、文章の腕、イラストの腕を磨いていきます!ちょっと特異な気質を持ってるらしい私の人生経験が、誰かの人生の励みや参考になれば嬉しいです!