ヨハネの黙示録に組み込まれた「完璧な論理」からは非キリスト教徒の現代日本人も逃げられないと思う話
以前のこちらの記事に書いた『ヨハネの黙示録』を巡る考察をやらせてもらった話、その後日の所感となります。
このたび機会を得て『ヨハネの黙示録』なる古代書を徹底読解しての感想は、
「この本の論理は、ある意味、完璧じゃないか?」ということでした。
どこが完璧なのか?
『黙示録』の基本的なエッセンスだけを整理してみましょう。
黙示録に描かれているのは、青白い騎士が地上の生き物を殺しまくったり、
レッドドラゴンやら、海と地中から現れた魔獣が、人々に666という悪魔の刻印をして回ったりといった「世界の終わり」を巡る凄惨なビジョンです。
どうしてこんなおそろしい「終末の日の風景」を詳細に描いているのか?
結論として以下のようなロジックを持ってくるから、といえそうです。
この本に書かれていることをタワゴトだと笑っている人は、実際に終末の日が来たとき、「あの本に書かれていたことは本当だったんだ!」と悔やみながら、青白い騎士やレッドドラゴンに殺されるでしょう。
いっぽうで、この本に書かれていることを本当だと信じていた人は、実際に終末の日が来たときに、「あの本に書かれていたことは本当だったんだ!」と報われるのを感じ、青白い騎士やレッドドラゴンに殺されている人たちとは別枠として扱われ、新人類として生き残ることでしょう。
もちろんこれはかなり単純化したロジックですが、まとめてしまうと「黙示録」の結論部分は、こういう話になると思います。
ハッキリ言って、福音や博愛を説いている聖書の中ではずいぶん異質な一書ではないでしょうか。かなり怖い論理ですよね。
でもこの論理って、『ヨハネの黙示録』にかぎらず、現代のさまざまな政治的主張や、科学理論の主張、はてはSNSレベルでの個人の主張にも、ひそかに紛れ込んでしまっているものではないでしょうか。
「私の主張に反対する人、私の仕事を批判する人たちもいますが、いずれ私のいうことが現実になったとき、彼らは後悔することになるでしょう!」と、うっかり未来において「自分を批判していた人たちに裁きがある」という期待を語ってしまう論理が!
そしてこの論理は「未来においてきっと」という空想で目の前の議論を(自分に有利な解釈で)棚上げしてしまうので、ある意味、反駁されようのない完璧な論理でもあります、だからタチが悪い。
単純にこの論理がいけないのだ、という話をしたいわけではありません。どんなに客観的で冷静に見える主張でも、何らかのレベルでこの論理って紛れ込んじゃってますよね、人間の宿命ですかね、怖いですよね、という話です。
かく言う私にしたって、自分の意見に反対を食らったときは「ムッ」としますし、
そういうとき「いいさ、いつか僕の意見が正しいことがわかって、あいつらはそのとき『こちらが間違っていました』と謝りに来るんだから」と心のどこかで空想してしまうもの。そんなことは人生の中で、何べんもありました。
だから、それが悪いとかダメだということではなく、「人間の中にはそういう感情があるということに気づいていること」がせめて大事なのではないかな、というお話です。
『ヨハネの黙示録』は、古代の、それこそ宗教どうしの殺し合いが激しかった時代に書かれた文書なだけに、描写も過激で、「信じる者が救われ、信じない者は想像を絶する悲惨な死に方をする」というビジョンが、露骨です。
露骨であるがゆえに、現代人の心にもきっと残っている、人間というものの生々しい一面を、見事にえぐってくれているわけです。
こういうところがあるからこそ、古代の文書というものを読むという体験、侮れないのです。
以上、ライターの仕事として一ヶ月ほど『ヨハネの黙示録』という文書の研究にどっぷり入り込んでいた私の、仕事を終えての所感でした!
子供の時の私を夜な夜な悩ませてくれた、、、しかし、今は大事な「自分の精神世界の仲間達」となった、夢日記の登場キャラクター達と一緒に、日々、文章の腕、イラストの腕を磨いていきます!ちょっと特異な気質を持ってるらしい私の人生経験が、誰かの人生の励みや参考になれば嬉しいです!