イ・チャンドン『シークレット・サンシャイン』を観た。

 突然ですが、映画の感想を書きます。なぜか。推しにおすすめされた映画だからです。この映画が好きとか気になるとかでこの文章を読んでいる人が万が一いたら、イ・チャンドン監督を愛するアイドル、月日さんの存在をぜひ知っておいてください。Twitterアカウントはこちら。では、始めます。

 ひとまずあらすじを紹介しておく必要がありそうですが、この文章の名宛人は専ら月日さんであり、月日さんはすでにこの映画を観てるわけですから本来あらすじの紹介など不要です。ですが、『シークレット・サンシャイン』を観たことのない月日さん以外の人たちのために、最低限の情報は示しておきましょう(手紙は名宛人に届くとは限らないですからね)。情報が足りないと感じた人はググってくれ。

 主要な登場人物は、乱暴に言うと二人。主人公(一人息子がいて、夫はすでに亡くなっている)、そして車の修理屋かなんかの社長(以下、社長と呼びます。ちなみにソン・ガンホが演じてます。名前でピンと来なくても顔見たらなんか見たことある!ってなる人も多いのでは)。話は、主人公が死んだ夫の故郷である密陽(ミリャン)に息子と二人で車に乗って向かっているところから始まります。で、密陽で暮らし始めるものの息子が誘拐され、殺される。主人公、当然のごとく自分を見失う。そんなとき、以前から近所の薬局のおばちゃんに誘われていた教会へと足を運んでみると…というような感じです。分析に入ります。

 この映画を読み解く際に立てられるべき問い、それは「シークレット・サンシャインとはなにか」でしょう。言うまでもなくこのタイトルは、主人公が引っ越した先である密陽を英語に直訳したものです。しかしそれだけのことではもちろんない。では「シークレット・サンシャインとはなにか」。その答えの手掛かりは一番最後のシーンにあります。

 主人公は息子を殺されて自分を見失いますが、そこで心の平穏を得るために、キリスト教を信仰するようになります。そしてついには、息子を殺した犯人を赦すべく、犯人との面会に臨みます。ところがその犯人が、収監されてからキリスト教への信仰に目覚め、神は自分を赦してくれたのだとめちゃくちゃ穏やかかつ幸せそうな表情で主人公に告げる。こうして、主人公は再び自分を見失い、神を挑発するような行動を繰り返した挙句、最終的には精神病院に入院してしまいます。

 さて一番最後のシーンについてですが、これは主人公が病院から退院し、社長の運転する車で美容室に髪を切りに行くも、髪を切っているのは息子を殺した男の娘だったので店を飛び出し、結局自宅の庭で社長に鏡を持ってもらいながら自分で髪を切るというシーンの後にやってきます(書き忘れてましたが社長は、息子の死以降色々あった主人公にずっと寄り添っていたのです)。主人公と社長を映していたカメラは徐々に左へとスライドしていき、ついには洗剤の空容器が転がっている何でもない庭の一角を映し出します。そこで最後に観客が見出すもの、それは庭に降り注いでいる陽光(サンシャイン)に他なりません。

 ここから、サンシャインとは第一に、身の周りのありふれた存在、にもかかわらず、いやだからこそ何ものをもってしても代えがたい存在、を意味しているということがわかります。これがわかるとこの映画の大まかな筋が見えてくる。つまりこの映画は、息子という光を失い自分を見失った主人公が、神という新たな光を見出したかとおもったがやはりついていけずに再び自分を見失う(⇒神への挑発)も、最後には社長という光によって再び自分を見出していく、というお話なのではないでしょうか。

 社長はなぜ光と言えるのか。このことは、終盤のシーンで社長が主人公の顔の前で鏡を持って立っていることから明らかなはずです。鏡は光を反射させるものです。だからここで鏡を持つ社長は、主人公を照らす光なのであり、しかもその結果、主人公は自分の姿をしっかり見つめることが可能になっている。それゆえに、光を失った主人公が社長という身の周りのありふれた存在=光によって、自分を見失った状態=暗闇から再びすくいあげられるということが、このシーンによって示唆されているのだと言えるでしょう。さらに付言しておけば、作中で一貫して社長が俗物として描かれていたことは、神という聖なる存在との対比を強調するものであった、とも言えるでしょう。聖なる光(神)と俗なる光(社長)、結局主人公を救うことになりそうなのはどうも後者らしいのです。

 以上のようなサンシャインの意味合いが見えてくると、おのずとシークレットのほうの意味も分かってきます。シークレット、直訳すれば秘密の、とか隠されたとかいった意味になりますが、隠されているといっても神のような「目に見えないもの」という意味ではない。そうではなく、「目に見えるもの」が隠されている、ということが重要なのです。作中で主人公は、薬局のおばちゃんとのやり取りのなかで、「あそこに射している光も神なんだよ」みたいなことを言われて、「ただの光じゃない」と応えます。そして、「見えないものも目に見えるものもどちらも信じられない」というようなことも言います。

 主人公はこんなやりとりをしたものの、いったんはキリスト教に入信します。でも結局「目に見えないもの」、つまり神を信じ切ることはできないわけです。でもいつもそばには「目に見えるもの」である社長がいた。繰り返しになりますが、この「目に見えるもの」を最後は信じることができるようになることがほのめかされて映画は終わります。つまりは、まさに光のようにありふれすぎていて、目に見えているのにそのありがたみに気付いていなかった、そういう意味で「隠された光」である社長という存在の意味に、主人公がこの先気づいていくであろうことが予想されるわけです。

 以上で、シークレット・サンシャインの意味はもう明らかでしょう。シークレット・サンシャインとは、「身の周りにありふれ過ぎていて普段はそのありがたみに気付いていない、でもそうだからこそ私たちにとってかけがえのない存在」のことだったわけです。このことは他のシーンからも了解できるようにおもわれるので、さらにいくつかのシーンを取り上げておきます。

 『シークレット・サンシャイン』のなかでは、「密陽ってどんな街?」という問いかけが二度なされます。二回とも社長の車の中なのですが、一度目は映画の最初のほうで主人公が社長に、二度目は映画の終盤で主人公の兄(弟だった気もします)がやはり社長に、それぞれ問いかけます。一度目に問いかけられたとき、社長はこの問いに対して明らかに戸惑った表情を見せます。そして、「ハンナラ党が強い」とかわりとどうでもいいようないくつかの答えを返すだけです。でも二度目は違う。妙に自信を持ったような面持ちで、「他の街と同じさ」と応える。密陽=シークレット・サンシャインはどこにでもあるようなものだ、ということがここでも示されているわけです。

 さらに一度目の「密陽ってどんな街?」という問いかけよりも前のシーンに遡ってみます。それは密陽に向かう途中で車が故障し、修理が来る(この時来るのが社長なんですね)のを待っているシーンです。することもないので、主人公は車から降りて、道路脇の小さい川の近くに息子と一緒に座っている。このとき主人公は本当に幸せそうなので、息子は「何でそんなに嬉しそうなんだ」みたいなことを言うわけですが、このシーンで主人公は、息子というシークレット・サンシャインのありがたみをめいっぱい感じていたからこそ息子が不思議に思うくらい幸せそうだったのです。

 もう十分でしょう。「シークレット・サンシャインとはなにか」という冒頭に掲げた問いに対する答えは十分示すことができたはずです。そしてここから翻って、この映画をみた私たちはこう問いかけられるようになる、「あなたにとってのシークレット・サンシャインはなんですか」。それは「身の周りにありふれ過ぎていて普段はそのありがたみに気付いていない、でもそうだからこそ私たちにとってかけがえのない存在」であればなんでも、いくつあってもいいわけです。もちろん私にとってのシークレット・サンシャインとは、この文章を書くきっかけをくれた月日さんに他ならないわけです(これが言いたかった)。あ、月日だからサンシャインじゃなくてムーンライトなのかな…。以上です。

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